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 カデンツァ 第四章   


                        -12-


翌日、目覚ましがなる前に泉はすでに起きていた。廉を起こさないようにベッドを抜け出し、キッチンに立った。冷蔵庫の中を見て、何か食べられそうなものがないか探したが、まっとうなおかずになりそうなものは何もなかった。

廉は昨日、夕食は作らなくても良いと言っていたが、朝食については何も言っていなかった。目覚ましにセットした時間からして、朝食にそれほど時間をかけているとは到底思えない。もしかして、何も食べずに仕事に出ているのだろうか。

泉はシンクの下にあった米びつから米を少し取り出して、そばにあった鍋で洗い、かゆを炊いた。貝柱の缶が見つかったので、それをかゆに入れた。少し青いものがあればいいのだけれど…これでも食べていってもらおう。


目覚ましが鳴って、廉が起き出した。自分の隣に泉がいないことを知って、廉はまた慌てた。が、今日は何か違う。部屋の外から何か食べるもののにおいがする。廉は部屋から出て、キッチンにいる泉を捕まえた。

「僕が起きる前に布団から出るな。明日からベッドに縛り付けるぞ」

廉は笑いながら泉を抱きしめて頬擦りした。伸びたひげがあたって痛い。

「やすりみたい」

泉が廉の頬に手をあてると、廉も自分であごに手をやってそれを確かめた。そしてにやりと笑って、泉にさらに顔を押し付けようとした。泉も笑いながら逃げたが、廉の力にはかなわず、最後には全く身動きできないほどに強く抱きしめられた。


こんな幸せが、一体いつまで続くのだろう。泉は何も考えないでここに来てしまったことが恐ろしかった。これは明日終わるかもしれないし、1週間続くかも知れない。もしかしたら、何ヶ月か…けど、いつまで…?

「それで、一体何を作ってたの?この部屋には食べるものはないはずだけど」

泉は廉に言われてはっと我に返った。

「そうですね。本当に何もなかったから、おかゆにしてみました。お米はあったから」

「初めから僕をそんなに甘やかすと、大変なことになるぞ。僕は君を家政婦にしようとしてるんじゃないんだし」

廉は泉の作ったかゆの入った鍋のふたを開けようとしたが、泉にその手を止められた。「顔を洗って、着替えてきてからです」

「はいはい。わかりましたよ」



そして、廉は泉の作ったかゆを食べ、支度をして出勤した。泉にはお金の入った財布を渡して、買い物に行くならそこから使うように言った。

独り部屋に残された泉はしばらくぼうっとしていたが、することがなくてため息をついた。掃除はしなくていいと言われたし、食事を作るにしても、廉は夕食は外で食べてくると言っていたから、自分の分だけならさっきの残りが…

けれど良く考えたら、この家には何もないのだ。明日の朝も、あさっての朝も……やはり買い物に行かなければ。

スーパーが開くまでまだ時間がある。泉は自由に使ってもいいといわれた音楽室へ行って、ピアノのふたを開けた。


赤いフェルトのカバーをはずして白い鍵盤の上に指をつうっと滑らせる。

なんてきれいなピアノ。椅子をひいてゆっくり腰掛け、泉は鍵盤に指を置いた。そしてピアノの奏でる幸せな音に深く入っていった。




10回目をコールして、留守番電話のメッセージが流れた。廉は会社に来てから自分の部屋に電話していた。

どうして出ないんだろう?どこかへ出かけたんだろうか?それとも自分の部屋にまた戻ってしまったんだろうか?

廉はすでに自分がいらいらしているのがわかった。彼女が自分の部屋からいなくなってしまうのではないかと不安だった。静岡の家から、無理やりと言えば無理やり連れてきた。けど、こんな風に存在確認するなんて、まるでストーカーだ。

いや、1回でいいのだ。泉が電話に出てくれれば。それで安心できる。

「いずみぃ?いるなら電話に出てくれ…

廉がつぶやくように言った後、泉が電話に出た。

「泉?」

「――はい。廉さん?」

泉はこわごわ訊ねた。

「どうして電話に出ない。いなくなったかと思った」

「だって、廉さんのお部屋だし」

「電話には出てもらって良いよ。君が嫌でなかったら。たいがいマンションとか、株を買ってくれって電話だと思うけどね。今日は、どこか出かける?」

「午後に買い物に行くと思います。食べるものが何もないので」

「ああ。そうだった。確かにうちには食べるものはない。ピアノは弾けるが、君には昼ごはんもないな」廉はくすくす笑った。

「ちゃんと渡した財布から払えよ」

「でも私の昼ごはんですけど」

「うちに来たんだから、僕の言うとおりにしてもらう」

「私の部屋に来られても、そんなことできませんけど」

「だから君のところへは行かない。帰らせないから」

泉は笑って本当に夕食はいらないのかと訊ねた。

廉が「残念だけど」と答えると、「そうですか」と小さく声が返った。

彼女は寂しいと思っているのだろうか?廉は何だかたまらなくなって「愛してる」とつぶやいた。

「私も……」

廉は胸が締め付けられそうになった。初めて言った。彼女が。

自分の部屋に飛んで帰りたい気持ちを何とか抑えて、廉は携帯を切った。



廉の母、裕子は廉のいる部屋の扉を静かに閉めた。

心臓がどくどくと音を立てているのがわかる。裕子は廉がとりあえずアリオンの副社長におさまることが決まってから、智香子か理恵を早く嫁にもらうべきだと考えていた。どちらも銀行とつながりのあるちゃんとした家だし、そうでなければいずれ廉をレグノに戻すこともかなわない。

裕子は一番望んでいた智香子の母に連絡を取り、廉がアリオンの副社長になることも決まったので、もう一度あの縁談を考えてもらえないかと頼んだ。しかし、智香子の母の歯切れは悪かった。どうやら智香子には最近、相手がいるらしいのだ。

それなら理恵でもと思い、裕子は理恵の母方の祖母、千代子に連絡した。ところが千代子からは、理恵が警察に世話になるようなことになったので、と言葉を濁された。

裕子はそれ以上は聞けなかった。いくらなんでも、警察に連れて行かれるような娘を嫁にするわけにはいかない。

だから裕子は自分で廉の相手を探した。今日はその見合い写真を見てもらうために会社にわざわざやってきたのだ。廉はさっぱり家に帰ってこないし、会社でなければ廉を捕まえられないからだ。


それなのに……

裕子は声もかけないでレグノで廉が割り当てられている部屋に入っていこうとしたため、廉の電話を思わず立ち聞きしてしまった。


そんな必要もないが、裕子はレグノの本部の廊下を走って逃げた。

まさか…まさか…本当に、あの学生とそんなことに……

夫の匡からは、以前、廉はアルバイトでピアノの先生をしている学生にうつつをぬかしていたが、河部がそれを追い払ったと聞いていた。

抜き差しならない関係になる前に終わってよかったと思っていたのに……


裕子はすぐ匡のいる社長室へ行った。そして、今聞いた話をそのまま匡に話した。