朝作ったかゆを食べようとキッチンに立っていた泉は、自分のポケットがブーンと震えるのを感じて携帯を取り出した。
綾子だ!そういえば、綾子から連絡があるかもしれないと廉が言っていたっけ。泉は慌てて電話に出た。
「泉さん?」
「はい。こんにちは。お久しぶりです」
「元気にしてるの? 今どこにいるの?」
「あの…元気です。実は…今、廉さんの部屋に」泉は口ごもった。
「あら! そうなの? ずっといるの?」
綾子はあっけらかんと訊ねた。
「…ええと…昨日来ました。しばらくいると思います」
泉は電話なのに真っ赤になった。同棲すると言っているのと同じだ。しかし、綾子は泉が思ったような反応はしなかった。
「良かった!! どうしてるかと思ってたのよ…お母さんのことは、残念だったわね」
公子の葬儀の時、綾子はUSからたくさんの花を送ってきてくれていた。
「……お花をたくさん、ありがとうございました。母も喜んでたと思います」
「本当は私もそちらへ戻りたかったんだけれど、NYの公演にはいってしまって…ごめんなさいね」
「そんな…とんでもない…とても感謝しています」
綾子が泉のことをこんなに心配してくれているのが、ありがたくもあり、不思議でもあった。
「それでね。廉さんからもう聞いてるかもしれないけど…実は、例の曲ね、デジタル処理したのがあがってきてるの。廉さんには送っておいたんだけど、もう聴いてもらったかしら?」
「はい。あんまりすばらしい歌で…アレンジもよくて…驚きました」
泉は初めてCDを聴いたときのことを思い出した。
「そう。よかった。あのね。実はあれを早々に私の次のアルバムに入れる準備をしたいの。それで、勝手なことを言うようだけど、急いであなたといろんな契約をしなくちゃならないんだけど……」
「はぁ」
泉は綾子が何を言いたいのかさっぱりわからなかった。
「泉ちゃん、しっかりして頂戴。あなたデビューするのよ」
それを聞いても泉にはぴんと来なかった。綾子のアルバムに入る曲を1曲だけ作っただけのことだ。
「これからうちのエージェントの担当者を連れて行くわ。あなたが気に入るかどうかわからないけど、あなたはまだ学生で将来もあるし、今レコード会社と直接契約することにしないほうがいいと思うの。だから、今回だけ、うちのエージェントと契約しておいてもらえれば、面倒なことはやってもらえるわ。もちろん少しマージンを払うことになるけど」
「エージェントって…」
「私の契約しているレコード会社はロンドン・デライアって言うところなんだけれど、そういうレコード会社からマネージャが派遣されるケースもあるわ。でも、少しいろいろなところと仕事をし始めると、レコード会社の間で色々決まりが出てきて、やりにくくなっちゃうのね。だから私はマネージメントの会社は別にして、契約もアルバムごとにしてるの。あなたもいずれはどこかのレコード会社と契約することになると思うけれど、とりあえず今回だけはうちの事務所を通してやってもらえるとありがたいわ。そうすればやっかいなことはエージェントがみんなやってくれるから。急がせるみたいで、本当に申し訳ないんだけど、もう来月には発売なのよ」
綾子は今回のアルバムのタイトルを泉の曲にしたかったが、既にゲラがあがってきていたので出来なかったと言った。
「そのかわり、車のCMが決まりそうなので、一番初めのシングルカットは「大切なあなた」になるわ。そうしたら、きっと忙しくなるわよ。今のうちに出来ることはしておいてね」
綾子の口調は夢見るようだった。
「なので、これからサインをもらいに行きたいんだけれど、いいかしら?」
綾子の言うことを拒否する理由などない。泉はお待ちしていますと言って電話を切った。
廉は部屋の掃除などしなくても良いと言っていたが、綾子も来るし、とりあえずリビングだけは片付けておこうと思い、ざっと掃除機をかけた。それがすんでお茶の用意が出来るかどうか確認したところへ、ちょうど綾子たちがやってきた。
綾子は自分のマネージャである山際貴美と、そのマネージャを派遣しているワン・セブンス・ジャパンというエージェントの小関茂を連れてきた。ワン・セブンスはもともとUSの音楽業界のエージェントで、あのイーサン・バーネットやヴァイオリニストのリー・ジェイ・ハムルなどの巨匠を何人も抱えている老舗だということだった。
小関が言うには、今回は、泉のアルバムに例の曲を入れたり、それがCMなど他で使われる際の契約の代行、著作権料の管理、それに関わる仕事が発生した場合のマネージメントなどをワン・セブンス側がやるというスポット契約を結んで欲しいと言うことだった。契約料は代金の5%でということなので、何もわからない泉にとっては決して悪い話ではない。
「今回はスポット契約ですが、私どもは今後もお付き合いしたいと思っています。僕もあの曲をききましたが、何度も聞きたくなる、そんな曲でした。他にも書いてらっしゃるのでしょう?できれは近いうちにどれか見せていただけますか」
「あら小関さん、見せてもらうのは私が先よ」
綾子が笑いながら言った。
「泉さん、他にもあるんでしょう?私、廉さんからちらっと聴かせてもらったの。うろ覚えだけどって廉さんが弾いてくれたんだけど、実は、あれが頭の中でずっとまわってるの。ただ、カデンツァは今、泉さんが書き換えてるって……ほらこんな曲」
綾子がラーラーと歌いだしたのは、泉が廉と初めて会ったときに弾いていたあの曲だった。
泉が一瞬、口がきけなくなっていたその時、玄関のベルが鳴った。2回、3回と続けて押されたので、泉は「ちょっと失礼します」と言ってリビングを出た。
誰だろう? 一体。
泉が玄関をあけると、まるでなだれ込むように二人の年配の男女が玄関に入ってきた。廉の父母、匡と裕子だった。
「やっぱり! 人の息子の家に上がりこんで!」
裕子は泉をにらみつけた。泉は壁を背中にして二人を見つめた。
「誰か来ているのか。ちょっとあがらせてもらう」
匡は玄関にあった客人たちの靴を見ながら、自分の靴を脱ぎ、泉に何も言わせないまま部屋へ上がりこんだ。
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