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 カデンツァ 第四章   


                        -14-


「一体、どういうことだ。廉をたぶらかした上に、家に上がりこんで、客まで呼んでるのか」

「全く!だから言ったのよ。親もいないような、どこの馬の骨かわからない娘とは早く別れさせるべきだって……」

二人はそう言いながらリビングに入っていこうとした。

「あの…あの……ちょっと待って…」

泉は何とか止めようとしたが、彼らはまるでブルドーザーのようだった。リビングに入って、入り口で既にいる客をじろりと眺め回した。


匡が「すみませんが、この女性と話があるのでお引取り…」と言いかけてやめた。


「あら。こんにちは、社長。お久しぶりです」

綾子が立ち上がって、すらりとしたその美しい容姿を見せつけるように小首をかしげながらゆっくりお辞儀した。

「一宮さん…」

匡は唖然として入り口で立ち止まってしまった。裕子も「一宮」と言う名前を聞いてはっとしたようだった。



「何かただならないご様子ですわね。馬の骨というのは泉さんのことかしら?それとも私?」

綾子は腕組みしながら涼しい笑顔で裕子に訊ねた。

「いえ、まさか! あなたのことでは…」

裕子は慌てた。自分が口走ったことが聞こえていたのだ。

「でも、私も両親、とっくのとうに亡くなっていますのよ。そんな人は世の中にたくさんいると思いますけど、馬の骨はちょっとひどいんじゃありません?」

綾子に言われた裕子は赤い顔をして下を向いた。

「失礼なことを言ったかもしれないが、これはうちの家の問題なんです。この女性と話をする必要がありますので、すみませんが、お引取り願えますか」

匡は毅然として言った。しかし、綾子は相変わらず涼しい顔で答えた。

「いいえ。それは出来ませんわ。だって、社長と奥様がお話になりたいことって、泉さんに廉さんと別れて欲しいとということなのでしょう?それは困ります」

泉はそばでおろおろしていたが、口を挟むことは出来なかった。

「どうしてあなたが困るのです。困っているのはうちの方なんです。会社の存続がかかっているんですから」

匡が言うと、さらに綾子は微笑んだ。

「あら、困りますわ。だって、廉さんと泉さんが別れるなら、私、レグノ・デリソーラとは契約しませんもの」

そこにいた皆の視線が一斉に綾子に集まった。


「どういうことですか?」

綾子はレグノ・デリソーラともうすぐ契約を結ぶ予定だと廉から聞いている。今まで日本でどことも契約してこなかった綾子がいよいよ日本でプロデュースを任せるところを決めるのだ。この契約で、レグノ・デリソーラは昔から熱望していたクロスオーバー部門でのプロデュース事業を立ち上げる。

それがなくなるなどということは、絶対に避けねばならなかった。

「社長は泉さんのことを何もご存じないようですね。泉さんは、ものすごい才能の持ち主ですわ。私、今、彼女と契約するためにここに来ていたんです。近いうちにUS、UKとでデビューしますから。泉さんにはこれからも良い曲をたくさん作ってもらわなければなりません。だから、私にとっては、泉さんが幸せでいてくれないと困るんです。それを邪魔されるのなら、レグノとは契約できません」

「綾子さん…」

泉は思わず綾子の名前を呼んでいた。

「いいえ、泉さん。これは本気よ。私、正直申し上げますけれど、レグノ・デリソーラがどうなろうと興味はありません。けど、泉さんは今の私にとって何より大切な人ですから。お話が良くおわかりにならなかったのなら、もう一度ご説明差し上げてもよろしいですけど、先に廉さんとよくお話になられた方がよいのではないですか?」


匡は話を聞いている間、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。そして、声にならない声で小さくうなった後、「お話はわかりました。今日は失礼する」と言って裕子の腕をつかんで部屋を出て行った。

泉は後を追おうとしたが、綾子に止められた。「これ以上、嫌なことを聞く必要はないわ」


玄関のドアがばたんと閉まる音がすると、泉は力が抜けたようになって、リビングのカーペットの上に座り込んでしまった。


こんなことになるなんて。やはり、ここにいてはいけなかったのだ。綾子がうまく追い払ってはくれたが、あんなことを綾子に言わせるべきではなかった。


「ごめんなさい…すみません…私のせいで……綾子さんまで巻き込んでしまって」

泉は自分の頬にぽろぽろ涙が伝い降りるのを感じた。でも、もう力も入らないし、自分でもどうして良いかわからない。

言われるままここに来てしまったのが、そもそもの間違いだった。公子のことがあったからって、どうしてすぐ廉のところへ来ることを承諾してしまったのだろう。どうせかなわないことだったのに。

「わたし…帰ります。やっぱり、ここにはいられない」

綾子はぼんやりそう口走った泉をソファに座らせ、子供をあやすように肩を抱いた。

そして泉の涙がおさまると、自分と少し旅行しないかと誘った。部屋へ戻ってもすることもないだろうし、緒方の家の軽井沢の別荘に行って、一緒に温泉につかりに行ったり、音楽を聴いたりしてのんびりしようというのだ。

軽井沢は今、雪の中だが、別荘は管理人がきちんと管理してくれているので、いつでも使えるようになっていると綾子は言った。

庭先に野うさぎやきつねや鹿が遊びにくるのが見られるかもという綾子に、ぼんやり笑みを返すのが泉にとっては精一杯だった。