バナー


 カデンツァ 第四章   


                        -15-


その夜、廉は10時過ぎに自分の部屋へ戻ってきた。

その日のうちに帰宅するのは久しぶりだ。なにしろ家には泉が待っている。夕食はいらないと言ってあるが、彼女のことだから夜の酒の肴は用意しているかもしれない。それに今日はどうしたって彼女と…

そう、俺がこんなに我慢しているのはおかしい。昨日食べ損なったものは、今日はいただく。絶対に。

しかし、玄関を開けると部屋は真っ暗で、人の気配が感じられない。一体、どうしたというのだ。

「いずみ?……いずみぃ…?」

リビングも真っ暗だし、キッチンも真っ暗。音楽室は寒々としていて、寝室にも風呂にも泉の姿はなかった。嫌な予感がする。まさか、自分の部屋に戻ったのか?

廉は寝室のドロアーの中を確かめた。泉のものは静岡から持ってきたものだけだったが、昨日、少しはそこに下着などを入れていたのだ。しかし、それはすっかりなくなっていた。家政婦が用意していたタオルやアメニティセットだけが引き出しに残っている。

廉はまた、泉が持ってきた大きなかばんが入れてあったクローゼットの中も確認した。かばんは予想通りなくなっていた。


廉はひとり、部屋の中でうなるように叫んだ。


一体、何故だ。どうしてまた出て行った? どこへ行ったんだ!?

コートを着たままだった廉はポケット中にあった携帯を取り出し、泉に電話した。泉は自分に都合の悪いときは電話に出ない。それはわかっていたが、かけないわけにはいかなかった。3回コールしてやはりダメかと思ったとき、泉が電話に出た。

泉はその時、軽井沢の別荘にいた。別荘までは綾子のマネージャの貴美が車で連れてきてくれた。貴美は北海道の育ちなので、雪道には慣れている。全く危なげない運転で、軽井沢まですいすいとやってきた。

3人は別荘の近くのホテルのレストランでフルコースの夕食を取り、別荘に戻ってきていた。管理人に連絡していたので、別荘の大きな居間の暖炉には赤々とまきがたかれており、部屋はとても暖かだった。泉は綾子の案内で別荘の中を見て回った。


この別荘は非常に大きなつくりで、1階がリビングと居間、それに寝室が2部屋、2階に4部屋、屋根裏が2部屋ある。それに外には3年前に作ったという露天風呂まであった。秋実の祖父の世代から使っているもので、ずっと家族で受け継がれているらしい。

秋実には兄が二人いて、一人は若いうちに亡くなった。もうひとりはUSの大学で経済学を教えているということだった。

「秋実さんも、正親さんも普通の頭じゃないんです」

貴美が言った。

「そうね。あの人たちは、ちょっと、いえ、かなりおかしい部類の人たちだと思うわ。でも正親さんはすごく素敵な人なのよ。私、はじめは彼に恋してたの。ジェニファーっていう婚約者がいて、すぐ失恋しちゃったけど」

「ああ〜。確かに、正親さんはすごく甘いマスクですよね。大学でもきっと人気あるでしょうね。秋実さんは鋭い感じのハンサムですけど」

綾子が昔を懐かしみ、貴美も続けた。

「でしょう?だから正親さんは今でも私のアイドルなのよ。それに比べて秋実さんはもともとお友達が少ないでしょ。あんな感じだし、付き合うのも難しいんだと思う。ずっと付き合っていられるのは廉さんぐらいじゃないかしら」

綾子が言ったそのことに泉は興味を引かれた。そういえば廉がどうして秋実と知り合いなのか知らない。

「秋実さんと廉さんは幼馴染って言うか…小さい頃、学校が一緒だったのよね。秋実さんは中学の途中でUSに行っちゃったから離れ離れになったみたいだけど」


泉の電話が鳴ったのは、3人で暖炉の前でお茶を飲みながらそんな話をしていた時だった。鳴り始めた電話を取るなり、泉の顔が曇った。廉だ。

「はい」

泉は静かに返事をした。

「一体どこにいる! どうしてうちにいないんだ!?」

廉は電話で怒鳴っていた。長野にいるのに耳に響くほどだ。泉の前に座っている二人は顔を見合わせてくすくす笑っている。

「どうしてって…」

泉が困っていると、綾子が手を伸ばして泉に携帯をよこすように合図した。泉は携帯を綾子に渡した。


「あー、廉さん?」

綾子は二人に目配せして噴出しそうな感じだった。

「誰?え、綾子さん?」

廉がうろたえているのが目に見えるようだ。

「泉さんは預かってるわ。今、軽井沢の別荘にいるの。彼女、しばらく返さないから。帰ってきて欲しかったら、自分で迎えに来なさい。じゃ」

綾子はそれだけ言って、廉に何も話す機会を与えず電話を切った。

「1時間ほど電源は切っておきなさい。自分から電話しちゃだめよ。懲らしめなきゃ。彼がきちんとあなたのことを両親に認めさせて、迎えに来るまでは」

綾子はそう言って、泉に携帯を返した。泉は綾子の強い調子にあっけにとられながらも、言うとおりにしようと思った。


そのしばらく後、今度は綾子のところへ秋実から電話がかかってきた。

「なんだ、女3人で酒盛り中か?」

「そうよ。邪魔しないで」

綾子は自分の携帯を指差しながら口をぱくぱくさせて秋実だと二人に伝えた。

「東京の男どもの一人は泣いてて、もう一人は怒りまくってる」

「泣いてるのはあなたで、怒りまくってるのは廉さんね」

「あいつがあんなに怒って電話してきたのは初めてだよ。おまえの嫁は人攫いだとまで言ったんだから」

「あっはっは。そうよ。何とでもいって。でも悪いのは廉さんだから」

「強気だねぇ。で、なにがあったんだ?」

綾子はそれから携帯を持ったまま立ち上がり、歩きながら昼間あったことを秋実に説明した。秋実は綾子に「週末までだぞ」と念を押し、「それ以上は、俺が耐えられない」と言って電話を切った。


「大丈夫、秋実さんがうまくやってくれるわ」

綾子は泉にウインクした。本当にそうだと良いけど……泉は心の中でため息をついた。