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 カデンツァ 第四章   


                        -16-


その夜遅く、泉が携帯の電源を入れると、留守電が入っていることを示すマークがいくつも画面に表示されていた。

廉だ。

泉が留守電を聞こうとしてボタンを押しかけたその時、また電話がかかってきた。

泉が電話に出ると、廉はちょっと驚いたようだったが、すぐに「さっきはごめん」と謝った。

「それに…うちの両親のこと……悪かった。本当に。明日、ちゃんと話しに行くから」

泉は今日のことを思い出して、また暗い気分になった。

「廉さん…待って下さい。私…まだ決心がついていません。あなたとどうするか」

泉は正直に言った。このまま、自分が納得しないまま廉の言うとおりにしていたら今までと同じことを繰り返す。

「私、自分がやらなければいけないことがあります。まだ学生だし、今は休んでますけど、春には復学するつもりです。正直言って、あなたと結婚して学校も家もうまくやっていく自信がありません。それに、考えなしに静岡からあなたの家に出てきてしまいましたけど、けじめもなくそんなことするのは間違いだったと思ってます」

「僕と結婚しても大学には通えば良いじゃないか。前にも言ったけど、別に家のことや僕のことをやってもらおうなんて僕はこれっぽっちも思ってない。家のことは、今まで来てくれてた家政婦に掃除以外の他のこともお願いしようと思ってる。彼女もそうしたいって言ってくれてたしね。君は今までどおりしたいようにすればいい。けじめをつけたいって言うなら、今すぐ役所に行って紙をもらってくる」

「紙で済む問題じゃありません。たとえそうできたとしても、あなたのご家族はどうするんです?廉さんのご両親は、私と廉さんが結婚することなんて望んでいません」

そう、私は望まれていない。あの両親には。

「結婚するのは僕なんだぞ」廉はそう言って、大きくため息をついた。

「今日、うちの両親がひどいことを言ったのは悪かったと思ってる。本当に。申し訳ない。僕がきちんと話をしておかなかったから。それは明日、僕が話しに行く。もし、君を受け入れないと言ったら、僕は会社を辞める。だから…だから、戻ってきてくれ」

胸が痛い。この人が望んでいるままにすることは本当に彼のため?それに、アリオンは?

「あなたが辞めたら、アリオンが…レグノが困ります」

しかし、廉は泉のこの言葉を聞いて、また頭に血が上ったようだった。

「どうして、君がアリオンを気にする。僕には会社より君の方が大事だ」

泉は廉が本気だろうと思った。けれど、そんなことはさせられない。

「でも……アリオンには200人も従業員がいるんでしょう?」

「アリオンの200人より君が大事だと言ってるんだ」

「私はあなたにやめて欲しくないんです」

泉も珍しく大きな声で返した。

「だったら、結婚してくれ!」

激しく言い合った最後に、廉はそう叫んだ。

「君が必要だ。僕がちゃんと仕事するために。僕が生きていくために。側にいるだけでいいんだ」

泉の頬から涙がぽとりと落ちた。

「少しだけ……時間を下さい…」

泉はそう言って携帯の電源を切った。



翌日の朝早くに、廉は自分の家に戻った。匡が家を出る前にどうしても話をつけておきたかった。

泉を手に入れるためにはどんなことでもする。ここまで来て、泉を失いたくなかった。彼女にイエスと言わせるためには、何としてでも両親を説得しておかなければならない。

廉はチャイムを鳴らした後、家の冷たい門扉を開けて玄関の扉の前で一呼吸おき、家政婦の喜代子がドアを開けてくれるのを待った。

「まぁ、坊ちゃま。こんな早くに……」

「おはよう」

廉は挨拶もそこそこに家の中に入り、靴を脱いだ。

「どうされたんです?朝はもうお召し上がりになられましたか?」

「いや、用意しなくて良いよ。すぐ帰るから。父さんは居間にいる?」

「はい」

廉はそう聞いて、いつも匡が朝、新聞を読む居間へ向かった。


「おはよう」

居間のドアを開けた廉は、そろってソファに座っていた両親に向かって言った。

「廉。どうしたの?こんな早くに…」

裕子が驚いて立ち上がった。

「母さん…僕がここに来た理由はわかってると思うけど…昨日、僕の部屋に来て、二人して余計なことをしてくれたらしいね」

匡はそれを聞いて顔をしかめた。余計なことというのが、泉のことか、綾子のことか、いずれにしても廉の気にいらないことには違いない。

「朝から何だ」

匡はそういうのが精一杯だった。


「お父さん、お母さん。僕は彼女と結婚します。別にどうしても認めて欲しいとは思ってませんが、認めてもらえないなら僕はレグノを継ぎません。それに彼女も、一宮綾子もレグノとは絶対に仕事をしないでしょう」

「何!?」

昨日、綾子が言った通りだった。あの娘、そんなに価値があると言うのか。

「私にはどうしても理解できない。あの娘はただの大学生だろう?それも歳からすると5年も遅れて入ってるじゃないか」

「そうよ。たかだか大学にはいるのに、苦労するほど貧乏な家か、よっぽど才能がないのに無理して入ったかのどっちかじゃないの?」

匡の言うのに裕子が拍車をかけるように言った。廉はうんざりした様子で大きく横を向いてため息をついた。

「あなた方は、邪魔するだけ邪魔して、何も調べてはいないんですね。河部から何も聞いていないんですか。彼女は一旦大学を卒業して、就職してからまた芸大に入りなおしたんです。お父さんは芸大に入りなおしたときにはもう亡くなられていたので、彼女は働いてたときのお金とアルバイトで今までなんとかやってた。専攻はピアノですけど、実は作曲の方に才能があります。綾子さんから聞いてるかもしれませんが、今度の新しいアルバムの1曲を彼女が書いて、それをイーサン・バーネットが編曲して綾子さんが歌うことになってます。アルバムに先行して、USでこの曲を使った車のコマーシャルも入る予定です。この意味がわかりますか?」

廉は吐き捨てるように言った。

「この間、彼女のお母さんが癌で亡くなられたのは知ってるんでしょう?彼女にはもう両親はいなくなりました。叔父さんと叔母さんが静岡にいますが、静岡にあった家ももう売ることにしたみたいです。だから、僕は彼女を自分の部屋に連れてきたんです。もう離れているのも嫌だったし、彼女があなた方のせいで僕と結婚できないと思うのも嫌だった。僕は自分の好きなようにします。レグノに戻って欲しいと思うなら、彼女を受け入れてください。それが出来ないなら、僕はUSに戻りますから」

「廉……」

裕子はショックでソファの背もたれにもたれかかった。

「おまえがどうしてもというなら…仕方ないだろう…」

「あなた!」

決して納得して受け入れるわけではないことは匡の苦々しげな表情から見て取れた。けれど、これで泉のことに文句を言う人間はいなくなったはずだ。

廉はこの家で生活していたときと同じように、グレープフルーツジュースの入ったグラスを喜代子からを受け取って、立ったまま飲み干した。

「近いうちに連れてきます。結婚式はちゃんとやりますから」

廉はそう言って踵を返し、喜代子にグラスを返して部屋を出て行った。裕子が廉を呼んだが、廉は振り返りもしなかった。母が嫌がっているのは知っている。けれど、それは彼女を知らないからだ。

廉は自分の母親ながら、凝り固まった偏見に満ちた態度がどうしても許せなかった。もし母親と泉がうまく行かないようなら、泉は母親から遠ざけておこう。

だめなものを一緒にしておく必要などどこにもない。