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 カデンツァ 第四章   


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まるで嵐のようだった。廉の部屋を出てきて4日、泉は綾子と二人でまだ別荘にいた。

ワン・セブンスの小関はあの後、ニューヨークのデライアと契約するために綾子のサインした書類を持ってすぐ渡米した。綾子のマネージャの山際貴美は長野でずっと一緒にいると思っていたのに、その後に控えている例の曲のUSでのCM契約のために同じくニューヨークへ行ってしまった。

まるで泉のサインを待ち構えていたかのように、泉の周りは全てが動き出したように見えた。

一方、週末に秋実が迎えに来るまで、泉は綾子の勧めもあって、二人でゆっくり過ごすことにした。綾子に誘われるまま、近くの温泉に行ったり、少し離れた山の方でやっている山スキーのツアーに参加したりして、泉にしては時間を気にしない贅沢三昧の日々だった。

そんなことをしていると、時々公子のことを思い出す。元気なうちに、どうしてこういうことをしてやれなかったのか。自分が音楽の世界に行かず、あのまま働いていれば…

しかし、自分の曲が世の中に出ると聞いて一番喜んでくれたのは公子だった。泉にはそう思いなおすのが精一杯だった。

その日も泉は緒方の家の軽井沢の別荘のリビングで、真っ白に雪化粧した山の大地に、茶色いうさぎが1匹、飛び跳ねるのを見ていた。たぶん少し先にある藪のようなところからでてきたのだ。その小さく飛び跳ねてはこちらを向く様子がなんとも愛らしい。

泉はこんな時間を過ごしているのが、まるで嘘のようだと思っていた。この秋に公子が病気とわかってから、なんとあわただしかったことか。

公子に病気を告げることも出来ず、自分は時間に追われ、大学も休学したのに、結局最後は思うように公子と一緒にいられなかった。けど、それももう終わったことだ。

泉の心の中は今、非常に穏やかだった。これからもっと自分に正直に生きたい。大学にはそのうち復学できるだろうし、お金の心配がなくなったから、アルバイトもしなくて済む。そうすれば練習も好きなだけできるだろう。もちろん曲を作る時間も。

問題なのは、廉のことだけだ。


彼とはもう付き合わないと、何度も思った。自分とはどうやってもつりあわない人だ。

何をどう考えても、いつも出る結果は同じ。彼とは付き合うべきではないと。

けれど、彼はそれを否定し続けた。

私は彼の好意を利用するようなことまでしたし、ものすごく彼を傷つけた。それでも彼は良いと思ったのだろうか…

彼は彼の両親が反対していることも明らかだし、綾子があんなふうに言ってくれたとはいえ、人の気持ちがそんなに早く変わるものとも思えない。きっと嫌いなものは嫌い、私を受け入れてくれることはないだろう。

けれど廉は自分に結婚してくれと言ったのだ。

泉は自分はそれだけでもう十分だと思った。廉と過ごしたあの日のことをずっと、思い出にして生きていけると泉は考えていた。けれど、廉は……

どうしても私が必要だと言った。彼が生きていくために。


大げさだわ……

泉はふと笑って、そしてどうしようもない不安に襲われた。


私はどうするべきなのだろう。望まれてはいるけれど、私は彼が思うほど何も出来はしない。何もしなくていいといわれても、実際にはそんなわけにはいかないだろう。彼は企業を引っ張っていく人間なのだ。

それに、誰も私を歓迎してはいない。自分の家族もいないのに。

そんなところへ入っていけるのだろうか?


「泉さん」

フランス窓の前に立ちつくしていた泉に綾子が声をかけた。

「綾子さん」

振り返ると、綾子が泉の肩に手をかけた。

「廉さんのことを考えてたのね。彼に飛び込んでいけるかどうか、悩んでるんでしょう?」

泉はため息をつきながら頷いた。

「どうしていいかわからないんです。私…なんどもやめようと思いました。彼と私は、どう考えてもつりあわないって……大学もあるし、周りの誰も望んでいないのに、まして結婚なんて……」

「あら、私は望んでるわよ」

綾子はにっこり笑った。

「あなたと廉さんがつりあわないなんて、どうしてそんな風に思うのかしら。私は廉さんの部屋で初めてあなたに会ったとき、あなたがきっと最後の人になるって思ったわ」

「最後の人?」

「そう。廉さんはね、智香子さんの他にも付き合ってた人は何人かいるのよ。けど、長く続いた人は智香子さんから後はいなかった。それに、あなたみたいに廉さんのお友達をもてなした人もいないわ。みんなケータリングを使うのはうまかったけど」

あの時、廉がとても喜んでいたのは知っている。それなのに、私は彼にひどいことをしてあそこから逃げ出した……

「それに、廉さんがあなたを見る目。誰が見たってわかるわ。あの時だって……あなた、私たちが帰った後、襲われなかった?」

綾子にそう言われて泉は耳まで赤くなった。

「あぁら、図星?」綾子はくすくす笑い、綾子の肩を抱くようにして、フランス窓の脇においてある籐のラブチェアに並んで座らせた。

「それで、あなたが不安に思ってるのは、おうちのこと?それとも結婚した生活そのもののこと?」

綾子は泉の手を取って、まるで励ますように訊ねた。

「両方です。廉さんのことは好きですけれど、こんなに反対されてるのに、あのおうちの人とやっていける自信はありません。廉さんがレグノを継がれるなら、家の中のことも、対外的なこともある程度できる人じゃないと、奥さんはつとまらないと思うんです。廉さんは、自分のことだけしていれば良いって言ってましたけど、実際、そんなわけに行かないと思います。第一、わたし大学を卒業しなきゃいけないし…もちろん仕事もしたいと思っていますし…」

泉がそう言うと、綾子は「うわぉ。そうこなくっちゃ!」と手をたたいて喜んだ。

「もちろん、そうして頂戴。仕事はするべきよ。大学も卒業しなきゃね。でも、だからって結婚してちゃいけないってわけはないわよ」

綾子は泉の手をもてあそんでいた。

「廉さんは、家のことはやらなくて良いっていってたんでしょう?だったら、そうすればいいのよ。だって、あなたが大変なのわかってて結婚するんだから」

「そうでしょうか」

綾子は頷いた。

「廉さんがあなたと結婚するのは、あなたを幸せにしたいと思ってるからよ?自信を持って。私だってあなたには幸せになってもらわないと困るわ。そして、いい曲をいっぱい書いて欲しい。あのね、この間レコーディングしたあなたの曲、イーサンが自分でアレンジをやらせて欲しいって言ったのよ」

「ええ?」

綾子がイーサンと呼んだのはイーサン・バーネットのことだ。

「はじめはね、誰かいいアレンジャーがいないか、イーサンに紹介してもらおうと思ったの。そしたら、譜面を見たイーサンが自分でやるって言い出して。あとはあの通り。イーサンがやるってことはメトロポリタンのオケがやるってことだから。みんな、いい曲だって言ってくれて、練習の時もすごく真剣だったのよ。他にはないのかって催促されたわ」


ああ。そんなことが本当にあっていいのだろうか。自分の知らないところで、自分の曲が一人歩きしてる。泉はこれは自分に都合よく作られた夢なのではないだろうかと思った。目の前にいる綾子も、自分に結婚を迫った廉も……

「だから、あれを早くあげて欲しいの。この間の曲。廉さんが私に教えてくれたあの…」

綾子が歌いだすと泉は頷いた。

カデンツァを放りっぱなしにしていたあの曲。譜面は自分で破いてしまっていた。けれど、作ったところはちゃんと頭に残っている。確かに捨ててしまうには惜しい曲だ。出来損ないの展開部以外は、自分でもなかなか良い出来だと思っていたのだ。早く曲にしてまとめてしまいたかったし、誰かに聞いてもらいたかった。

だから、たまたまあの曲に気を留めてくれた廉に、あんなことを言われてひどいショックを受けた。

そのおかげで、自分の身の回りがこんな風になるとは思わなかったけれど。泉はひとりで苦笑いした。

やはりもう一度、書き直してみようか。あの導入部が生きるように。


「なるべく早くあげるようにします」

きっといいフレーズが浮かぶ。泉にはそんな予感があった。