日付が変わるころ、泉は久しぶりに自分のおなかが鳴るのを聞いた。二人でそれを笑いあって、一緒にベッドを出た。そして綾子が用意してくれていた本当にフルコースと言っていいくらいのすばらしい夕食を二人きりで楽しんだ。
振り返るとキッチンの冷蔵庫に磁石のクリップでメモがとめてあった。そこにはそれぞれの皿に置く野菜や肉、それに鍋に小分けにして作られたソースまで細かく指示がされている。
驚いたのは冷蔵庫の中にあったワイルドベリーのアイスクリームだ。買ってきたものではない、綾子の手作りだ。
ここにつれてこられた時にわかったのだが、実際、綾子は相当な腕の料理人だった。廉の話によると、秋実と結婚する前、綾子は叔母夫婦と暮らしていたが、その叔母はあのアリオン有楽町店のレストランプロデューサーである秋実の母親と一緒に料理教室をやっていた人なのだ。
なんと多芸なことか。綾子がレストランで料理を出しても、それなりのシェフが作ったと誰も疑わないだろう。
「私も少し見習わなくちゃ」
泉がアイスクリームを口に運びながら言うと、廉は
「君だって相当な腕だと思うよ。僕は君が持ってきてくれたあのお弁当で、本当にやられたと思ったんだから」
と言って笑った。
実際のところ、廉がここまで迎えにきてくれるとは、泉は思ってもみなかった。きっと、しばらくしたら綾子と一緒に東京へ戻るのだろうと。廉とのことは、もう一度東京へ戻ってから考えればいいと泉は思っていた。
このことでは廉以外に急いでいる人間はいない。別にもう逃げも隠れもしない。しばらくの間かも知れないが、少なくとも大学を卒業するくらいまでは、生活に追われることもないということがわかっている。だから後は廉のことだけだ。
綾子は泉に廉と結婚すればいいと言った。泉に幸せになってほしいと。
そうだ。自分にも幸せになる権利はある。綾子はそれが綾子のためにもなると言った。
――幸せになって、いい曲をたくさん作る
自分の作ったものがいいものかどうか、泉にはよくわからない。
確かに自分の心が浮き立つようなフレーズが浮かぶことはある。けれど、それが他人にとってもそうかということはわからない。
わかっているのは、自分の内側からあふれる音はもう止めることはできないということだけだ。公子が病院で苦しんでいたあの時でさえ、それは止まらなかった。
廉も自分の思いを止めることなどできない。それは今回のことでよくわかった。
彼の両親があんなに反対していても、彼がどうしてもと言うなら彼に従ってみよう。
私が失うものはもう何もないのだから。
泉はそう決心した。
廉と幸せな時間をすごした翌朝、泉はまだ外も暗いうちから、廉の腕をそっとよけてベッドを出ようとした。しかし、今回ばかりは前のようにはいかなかった。
「どこへいくんだ」
廉が低いかすれた声で言い、泉の身体をしっかり抱きとめていた。
「ごめんなさい。起こしちゃった」
泉が振り返ると、廉は目を閉じたまま泉の髪に顔をうずめるようにして言った。
「――本当に手錠でつないでほしいのか」
廉の腕に力が入る。泉の身体はぴったり廉の方へ吸いつけられた。
「だって今……鳴ってるの。あの曲の、カデンツァ……」
泉は夢見るようだった。さっきから、頭の中であるフレーズがずっと鳴り響いている。早く書き留めておきたい。
廉はそれを聞いて大きくため息をついた。
「先が思いやられる。こんな時間に曲を思いつくなんて…」
二人は一緒にくすくす笑ってベッドから起きあがった。
まだ寝ぼけた状態の廉をベッドの上においたまま、泉は自分の上着を取ってあっという間に部屋から出て行ってしまった。
寝床にいたときとは打って変わった引き締まった表情で、一刻も猶予はならないといった様子だった。
廉はその美しさに一瞬、あっけにとられた。
ピアノはすぐに鳴りはじめた。リビングは昨夜の暖炉の残り火のおかげで非常に寒いということはなかったが、決して暖かいとは言えない。
あとを追ってリビングへやってきた廉はエアコンのスイッチを入れ、すぐに暖炉にも火をおこした。
泉は例の曲をはじめから弾いたが、展開部はコード進行もフレーズ自体も、以前とまったく違っている。
すばらしい。
以前Jで聴いたものは、まるであとから無理やりはめ込んだような感じがしたが、今回のは、そこにあるべきものが埋まったという感じだ。
なんて印象的なメロディライン。
そして廉の耳には、それに絡みつく綾子の声が聴こえていた。
泉は自分の五線譜のノートにざっとフレーズを書き込んだが、それがすむと、廉は泉にもう一度最初からその曲を弾かせて、持っていたディスクレコーダで録音した。
この曲は綾子が首を長くして待っていたのだ。泉もそれを早く綾子に聞かせたいと思っていたので、廉にこれを綾子に送ってもいいかと聞かれて、本当にうれしくなった。
ダメだしされたこの曲を彼が認めてくれている。綾子に送ってもいいくらいの曲に仕上がってるということだ。
「不思議ね。どうしてあなたにはわかるのかしら……」
ようやくピアノから離れた泉が廉のところへ戻ってきた。
リビングのソファに座っていた廉は、泉の手を取って自分のひざの上に座らせた。腕を廉の首に回して頬を当てる。その子供のような微笑が、廉を満ち足りた気分にさせた。
「だって、君たちは会う前からずっと……僕の耳の中ではひとつになってた」
泉は疲れたのか、小さいあくびをひとつして廉のひざの上で寝息をたて始めた。
「――まだ会わせてもいないのに、嫉妬しそうなくらい」
廉はそのまましばらく泉の身体を抱いて柔らかな感触を楽しんだ。
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