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 カデンツァ 第四章   


                        -5-


理恵の父親と母親を前にして廉は、理恵が麻薬を買っていた容疑でもうすぐ警察に捕まるかも知れないと告げた。

「そんな…どうしてそんなでたらめを。うちの子がそんなこと、するわけないじゃありませんか」

信子はにわかに信じられないようだった。本当に何も知らないのだろうか。

「別に信じていただかなくても構いませんが、明日かあさってには警察がここに来ますよ。きっと」

廉は淡々と言った。俺はやることをやっているだけだ。

「私は詳細は知りません。おとといあるライブハウスで、理恵さんは薬を買おうとしていましたが、警察に見つかって逃げたようです。その時、全然関係ない友人が理恵さんの替わりに警察に捕まってしまいました。ライブハウスの監視カメラに理恵さんの姿が映っているそうです」

「嘘よ!」

信子が叫んだのを、一徳が「まぁまぁ、落ち着きなさい」と止めた。

「あなたはどうしてそれをご存知なんです」

一徳に訊かれた廉は正直に答えた。

「警察に捕まっているのは、私が結婚する予定の女性だからです」

信子はそれを聞いて、廉にくってかかった。

「うちの理恵を落としいれようとしてるんじゃないの!?冗談じゃないわ、全く!そんなどこの馬の骨かわからないような女と天秤にかけた挙句、こんなことするなんて、あなたもひどい人ね!」

これでは話にならないかも知れない。廉はさっさと言うことだけ言って帰ろうと考えた。

「ずいぶんな言いようですね。私は理恵さんのことが心配でここまで来ました。警察は明日までは動きません。だから、もし、本当に逃げたのなら自首することをお勧めします。それよりもっと大事なのは、理恵さんが薬をやっているかもしれないことです。検査すればすぐわかるでしょうが、中毒症状があるなら、病院に行かなければなりません」

これを聞いて信子は一瞬押し黙った。そして一徳に助けを求めた。「あなた…」


「理恵を呼んできなさい」

一徳は憮然とした表情で言った。



信子に呼ばれてやってきた理恵は、廉の顔を見て驚いたようだった。当然だ。お互い、もう会うこともないだろうと思っていたのだから。

こんな風に突然やってきたのはなぜか知らなかったが、理恵は何かを期待していた。

「廉さん!どうしたの?こんな時間に」

そうだ。もう10時を回っている。人の家にいきなりやってくる時間じゃない。


「理恵、そこに座りなさい」

一徳が理恵に言った。永田がいないときの一徳は、それなりに威厳がある。理恵は言われたとおり、父母の正面のソファに廉と並んで座った。


「おまえ、何か薬をやっているのか?」

一徳の問いに、理恵は驚いて廉の方を振り返った。そうさ、俺が言ったんだ。廉はちらと理恵をみたが、表情は変えずにいた。

「一体、何のことかしら?廉さん、父に何か告げ口してくれたの?」

廉は頷いた。

「泉がそんなに大切なの? 許せない、あの女!」

廉が頷くのを見た理恵は、激昂した。

「そんな言い方するもんじゃない。彼女は一言も君の名前はだしてない。デラロサのカメラに映ってたんだ。君が」

理恵の顔が恐ろしい形相に変わった。彼女がこんな風になってしまったのはなぜなんだろう。以前も父親や母親のことで怒っていたことはあったが、ここまでで
はなかった。それも薬のせいだろうか。

「ちっ!」と理恵は吐き捨てるように言い、突然立ち上がった。


「どこへ行くんだ!座りなさい」

一徳が逃げようとする理恵を捕まえようとし、もみ合いになった。ソファがひっくり返り、テーブルに置いてあった花瓶も下に落ちて割れた。理恵が手当たり次第にそこいらにあるものを父母に投げつけた。母親は理恵の投げたガラスの灰皿に頭をぶつけた。

廉はこの修羅場に参加するつもりは毛頭なかったので、理恵が逃げ出さないように応接間の扉の前に腕組みして立ち、しばらくこの様子を眺めていた。

何分か親子でもみ合い状態が続いて、理恵の腕をようやく一徳がつかんだ。その時、理恵の着ていたセーターの袖がまくれ上がった。

一徳はそれを見てぎょっとした。

腕の血管に沿って一筋、注射針の後が点々と続いている。



見られたという顔と、見てしまったという顔。視線がぶつかり合った。

理恵は動作を止めた父親から自分の腕を取り戻したが、責められるのを避けるように父親から背を向けた。しかし、一徳はその注射針の跡が痛々しい理恵の腕をとり、愛しげに擦った。

「どうしてこんな……どうして…」

一徳はぜいぜい言いながら涙を流していた。母親も額から血を流していたが、理恵をとどめるようにもう片方の腕を取っている。

そして、三人とも床に崩れ落ち、一徳と信子は理恵のひざをたたきながら泣いた。


廉はそれを見て、静かにその場を去った。警察に行こうが行くまいが、後はどうにでもなれだ。




その夜、廉は自分の部屋に戻る前に病院で公子を看ている泉の叔母のさえに電話した。廉が去ったあと、公子は一度昏睡状態に陥ったが再び意識を取り戻した。

さえはあれからずっと病院に泊り込んでいる。泉が間違って警察に連れて行かれていることを聞いて非常に驚いていたが、廉が明日必ず釈放されるからというと、少し安心したようだった。

さえももうかなり疲れている。廉は身体に気をつけてと言って電話を切った。



廉が自分の部屋に戻ったのは12時を回っていた。部屋に入るなり、廉は上着だけ脱いでベッドに身を投げ出した。

あとは泉のことだけだ。泉は今どうしているのだろうか。寒い警察の施設で、風邪などひいてなければよいが……

彼女のことが結局一番最後になってしまった。けれど、こうするしかなかった。泉にたどり着くには。

俺は何にもわかってなかったし、知らなかった。泉があんなに大変なことになってたなんて。

彼女は人に頼ることを知らない。人に甘えることも。自分のわがままを言うことも。知ってるのは人に頼られることだけだ。

彼女を取り戻したら、思いっきり自分に甘えられる環境を作ってやろう。甘えることが悪いなんて思わないようにしてやろう。

廉は泉が自分を素直に受け入れてくれればよいがと思った。