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 カデンツァ 第四章   


                        -6-


翌日は金曜日だったが、廉は会社を休んだ。やらなければならないことはたくさんあるが、ここで1日2日休んでももはやどうということはない。

千葉も大分しっかりしてきたし、アリオンの本体にはデイビッドが残した本田もやってきっている。

それより今は泉の方が大事だ。廉は朝から警察に向かい、博久を待った。


約束した9時きっかりに博久はやってきた。二人は担当の刑事に取り次いでもらい、昨日の話の続きをして調書を取ってもらうように頼むつもりだった。

しかし担当の刑事は、昨日の夜遅くに、理恵が両親と出頭してきたと言った。


昨日俺がやったことは無駄じゃなかったわけだ。

博久はにやっとわらい、「やったね?」と言った。廉は同じようににやりと笑い返した。


泉はすぐ二人の元に連れてこられた。疲れきった様子で廉は泉が倒れるのではないかと思ったが、泉は廉の姿を見ると、驚いて足を止めた。


「泉さん、森嶋さんが色々動いてくれたんだよ」

博久がそういうのを聞いて、泉は廉を見上げ、状況がわからないながらも頭を下げた。

泉の様子は痛々しかった。服は警察に捕まったときのままだったし、何より良く寝られていなかったのか、憔悴しきっている。3人は警察を出て、廉の車が止めてある駐車場へ向かった。

駐車場で泉は、「私、帰らなきゃ」とまるで夢遊病の患者のようにつぶやいて二人から離れようとしたが、博久がそれを止めた。


「森嶋さんに送ってもらえよ。僕はこれから大学に行くけど、泉さんは森嶋さんに預けてく」

泉は博久の言うことが理解できずに博久の方を振り返った。

「つらいときは人に頼ったっていいだろ?それに、森嶋さんは泉さんの大切な人だろ?」

泉は博久にいきなり心の中を言い当てられてうろたえた。呼吸が速くなる。どうして今そんなこと…


泉がおろおろしているうちに、博久は廉と合図を交わして「じゃ」と言って去っていった。


「さて。病院に行く前に、部屋に一度戻る?お母さんの具合はあまり良くないようだけど、今は叔母さんがついてるからね」

泉は廉がどうしてそんなことを知っているのかわからなかったが、とりあえずシャワーを浴びて着替えをしないといけないと思った。もう3日も同じ服だ。泉は言葉なく頷いた。


泉の部屋は警察からすぐだったが、廉は歩いて帰るという泉に反対して車に乗せた。泉も疲れているのか、いつものように強硬に反対はしなかった。というより出来なかった。

思考能力がものすごく落ちているし、そんな元気もない。

泉が部屋に戻り、シャワーを浴びて着替えを済ませて出てくると、廉は再び泉を車に乗せて水道橋の病院へ向かった。



今は何も言うまい。この人が自分にしてくれている事はただ感謝して受け取ろう。自分には今そんな余裕はない。博久の言うとおりだ。泉は何もしゃべらず、ただじっと病院へ着くのを待った。


その日、二人が病院に駆けつけたすぐ後、公子は呼吸が浅くなり、再び昏睡状態に陥った。さえは泉を連れて戻った廉に感謝した。

3人は医者から説明を受けたが、たぶん、それほど長くは持たないだろうと言うことだった。その日の夕方、さえの夫も静岡からやってきた。


泉は自分がいなかったことで母の具合が悪くなったような気がして落ち込んでいた。

もう何もできることもない。公子はただ死んでいくだけだ。あんなことがなければ、もう少し話す時間も出来たのに。

私があんなところで捕まらなければ。警察で自分ではないと、あれは理恵だったと、はっきり言っていれば……泉はぶるっと震えた。

何を今更…こうやっていつもいつも。私は後悔ばかりしている。

涙が零れ落ちそうになって、泉はふらふらと立ち上がり病室を出た。廉がその跡を追ってきた。


泉は病室を出て少し歩いたところにある病棟のロビーまで歩いて、決して座りごこちの良くないベンチによろよろと座った。

廉も隣に座ったが、泉は何も考えられないのかただ顔を手で覆ってうつむいている。

泉は泣いていた。涙がぽろぽろと落ちてくるのを、自分の中で何とかとどめようとしていたが、むだだった。

公子はもう助かりはしない。

警察を出た後、泉の側を片時も離れていない廉は、隣で静かに涙を流している泉の肩をそっと抱いて、自分の方へ引き寄せた。


夜になって一度だけ、浅い呼吸の中でぼんやり公子が目を開けた。

泉が「お母さん」と話しかけると、公子はふと笑ったように見えた。そして泉の隣にいる廉を見たのか、また口の端をあげた。


しかし、そこまでだった。公子は翌日の朝早くに息を引き取った。