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 カデンツァ 第四章   


                        -8-


廉は毎日欠かさず泉に電話してきた。仕事から帰ってくるのが遅いので、時間はいつも12時ごろだったが、他愛のない話をして泉の様子を探っていた。

初七日の法要には廉も出席した。法要が終わって片付けも済んだ後、泉と二人になった廉はそろそろ東京に戻らないかと訊ねたが、泉は首を振り、「年が明けたら」と答えた。

もう家の買い手もついたし、これまで公子の入院や、アルバイトをやめて使っていた貯金は公子の保険金が下りることになっていて心配することはない。

廉はそれを聞いて思わず

「じゃあ、Jのバイトはやめるのか?」

と即座に訊ねた。

「そうですね。もうアルバイトはしなくて済みそうです。普通の学生生活がおくれそう」

泉はほっとしたような、けれど、どこか寂しげな表情を浮かべた。しかし、泉のその返事だけでも廉はうれしかった。


ああ、結婚してくれと言ってしまいそうだ。

廉はそれをぐっと思いとどまって、泉が東京に戻ってくるまでの辛抱だと自分に言い聞かせた。


廉は有楽町店が大分仕上がってきている事を話した。有楽町店のレストランのプロデュースは、緒方秋実の母親に頼んである。

秋実の母親が綾子の叔母と一緒に、料理教室を開いていることや、秋実の父親が外交官で、長いこと外国にいたせいで、秋実の家で振舞われる変わった料理を廉が子供の頃から楽しみにしていたこと。

秋実の両親が日本へ戻ってきて、母親が料理教室を開いたと聞いたとき、頭の中には既にこの構想があった事などを泉に語った。

泉は「機会があったら私も行ってみたい」と静かに笑った。

「君も行くことになるさ。どうしたって」

廉は泉の顔をまじまじと見つめ、泉の首筋に手をやった。泉が身体をびくっと振るわせる。

一瞬、廉は手を戻そうとしたが、思いとどまってそのまま泉の首をなでた。

「泉…」

愛してると言葉には出さずに、廉は泉に口づけした。

廉の唇が自分の唇に触れると、泉はしばらくされるがままになっていたが、そのうちほんの少しだけそれに応えてみせた。


これは夢の世界。今だけ。今だけだもの……

これから先のことなど、何も考えられない。

泉は廉の広い胸に抱きしめられ、その時だけの恐ろしく幸せな気分を味わった。


その日、廉は綾子がネット上に置いていた例の曲をダウンロードしてCDに焼いたものを泉に渡して帰った。


泉は廉が帰った後、それをプレーヤーにかけて聴いた。

自分の作った曲がこんな風になるなんて。

もちろん、オケでやった時のことを想像していないわけではなかった。頭の中ではずっとそれが流れていたのだから。

細かいところは違うにしても、綾子と自分の感じ方は似ていると泉は思った。1曲目はオケのみ、2曲目は綾子の歌が入っている。歌詞は英語で、綾子のつけたタイトルは「大切なあなた」だった。

泉はその美しい声で語られる歌がまるで自分のことを指しているような気がして、涙が落ちるのを止められなくなった。


あなたには見えているかしら

あなたを見ている私

あなたには聞こえているかしら

あなたを呼ぶ私

あなたは感じているかしら

あなたを想う私


大切なあなた

大切なあなた

私の姿が見えない時も、

私の声が聞こえない時も、

私の存在に触れない時も、


忘れないで。大切なあなた。

私はあなたの心の中で、ずっと手を握っているわ


あなたがひとりで泣いているとき

泣いている私

あなたがひとりで堪えているとき

痛みを感じている私

あなたがひとりで戦っているとき

一緒に戦っている私


大切なあなた

大切なあなた


私の姿が見えない時も、

私の声が聞こえない時も、

私の存在に触れない時も、


忘れないで。大切なあなた。

私はずっとあなたのそばにいるわ。



泉は何度もその歌を繰り返して聴いた。CDケースの中に廉が印刷してくれた綾子からのメールが入っていた。そこにはこの曲を作るのに協力してくれた人々のクレジットが入っていたが、それを見て泉は一瞬目を疑った。

Arrangerのところにあった名前は、イーサン・バーネット。メトロポリタン歌劇場の常任指揮者である。

泉にとって綾子は雲の上の人だが、イーサン・バーネットはこの業界の巨匠だ。彼の作った曲は映画にも何度も使われているし、特にブラスの曲はコンクールの課題になることも多い。


そんな人が私の曲をアレンジ?


おまけに、これを演奏しているオケはメトロポリタンのオケの有志となっている。

泉はそれを考えただけでも身震いした。

綾子は本当にすごい人なのだ。ただの学生の自分が、そんな人たちに一回でも自分の曲を演奏してもらえたことを感謝しなければ。

泉は眠りにつくまでCDをかけ続けた。