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夜の庭   第一章   


                           -10-



 ロンドンから呼び寄せた庭師が作った温室というのはどんなものなのか、いまさらながらも興味があった。昨年、そこが人々の話題になっていた時には、エリザベスはまだ父親を看病していてそれどころではなかった。アンドルーにつれられて何枚かのガラス戸をくぐると、そこにはすばらしく天井の高い温室があった。おそらくアジアの方から持ち込まれた大きな椰子の木を真中に据えて、珍しい蘭が固めていくつも植えられている。同じくロンドンから呼んでこられたという陶器屋が持ってきたのだろう、アイボリーホワイトの天使や小さな噴水がその間を縫って置かれていた。ただ、よく見てみると、いくつかの蘭は手入れがうまくいっていないのか、ちょっと湿りすぎで病気のようだった。確かに、今はまだそれほどではないけれども、ここは温水を通さなくても、きっと夏には暑くなりすぎるだろう。外側のガラスはステンドグラスで非常に美しい装飾が施されているが、今の時期の夜でさえ、少しむっとするようなのだ。これが夏になったら、もうすこし風通しがよくないと。ガラスはいくつか開けられる窓があるのだから、そこを開けてやらないといけないのだわ。プリンストン家の人たちは気がついていないのね……

 エリザベスが目を輝かせているのを見て、アンドルーがくすっと笑った。
「なぁに?」
エリザベスが振り返って尋ねた。
「相変わらずだね。本当に花が好きなんだなと思って」
アンドルーがそういうのもあたりまえだ。
「ごめんなさい。すぐ夢中になってしまって」
エリザベスはアンドルーにいざなわれて真中の椰子の木の下に置かれている心中のベンチに腰掛けた。

「君の手入れしていたあの庭と離れるのはつらいだろうね。それで、新しい家は見つかったの?」
アンドルーはエリザベスがどんなに庭を愛しているかをよく知っていた。
「いいえ、まだよ。でも、早く探さなくちゃね。もうあんまりぐずぐずしていられないわ。5月の終わりには出て行くことになっているし」
それを聞いたアンドルーは顔をしかめた。
「5月の終わりって、それはカミラが決めたの? りんごの始末をしていけって事?」
子供のころからずっと一緒に過ごしているアンドルーにはそのことが良くわかっていた。夏に実のなるりんごは5月に受粉をしなければならない。そこまでがとても大変な作業なのだ。エリザベスは毎年それを出来る限り屋敷の使用人たちを使ってやっている。カミラが彼らをうまく指示できないということは明らかで、だからこそ、自分で5月の終わりまでという期限をつけたのだ。

「りんごは私が手入れをしたいからそうするの。もうこれで最後なのだし……それにジョンたちは5月まで待ってくれたのよ。紙の上ではもう遺産の譲渡は終わってるし、普通ならもうとっくに追い出されてるところだわ」
エリザベスは寂しげにアンドルーに笑いかけた。
「エリザベス。君、本当に結婚するつもりなの? あいつと?」
アンドルーはあごを元来たほうにちらと向けた。シルヴィのことを言っているのだ。
「ロード・シルヴィは……さぁ、どうかしら? 私に特別な興味があるようには思えないけれど。でも、心配しないで。アンドルー。私、小さな家を買うくらいのお金はあるのよ。いよいよだめなら家庭教師なんてことも……」
「何を馬鹿な! 君が家庭教師? そんなことになるくらいなら、僕が君と結婚する」
「まぁ、アンドルー! ばかなこと言わないで」
エリザベスはアンドルーの腕を取って笑った。
「いや、本気でそう思ってるんだ。僕たちの本当の関係を知ってる人間はもういない。だから、表向きだけでもそうできないことはないと思うんだ」
アンドルーは真剣だった。
「アンドルー……本当はあなたがローウェルの家督を継げたのにね」
エリザベスはアンドルーの顔をまじまじと見つめて言った。
「でも、大丈夫。私、何とかなると思うの。きっといい子にしていれば、どなたか良い方がもらってくださるわ」


 エリザベスの背中に手を回しながら、アンドルーはなぜか温室の通路のはるか向こうを見ていた。そしていつもはそんな風にしないのに、エリザベスの手を取って指にゆっくり熱いキスをした。まるで恋人にするように。その後、エリザベスの腕を取ってフロアの方へ続く廊下へ回れ右して戻った。アンドルーがなにやらほくそ笑んでいるのをエリザベスは見逃さなかった。
「なぁに? 何がおかしいの?」
「いや。なんでもない」

 フロアへ戻った二人はしばらく楽しくおしゃべりしていたが、そこへジョンとカミラの夫婦がやってきた。アンドルーはカミラがとても苦手なので、それを知っているジョンが始めの挨拶だけしてアンドルーを連れてどこかへ行ってしまった。
「あの男とまだ付き合ってるの? もういい加減になさい。ご縁のない方とずるずるお付き合いするのは良くないわ」
カミラはあきれたように言った。カミラに迷惑をかけたことはないはずだが、彼女はアンドルーのことを非常に嫌っていた。アンドルーの家が貧しい貴族であることが気に入らないのだ。
「アンドルーは私たちの遠い親戚だし、大切なお友達よ。カミラ」
エリザベスは珍しくちょっと言い返してみた。アンドルーのことでそんな風に言われるのがたまらなかった。
「おお、いやだ、いやだ。あんな噂を立てられて、どうしてそんなに平然としていられるのか不思議だわ。こんなところでおしゃべりしているのを見られたら、また皆の噂の種になるわ。少しは考えなさい」
数年前、エリザベスはアンドルーと結婚すると噂が広まったことがあった。カミラはそのことずっと言うのだ。

 フロアの向こう側でシルヴィがプリンストン家の下の娘に質問攻めにあっていた。エリザベスはもはや彼とダンスをしようなどとは思わなかった。一緒にやってきたのが嘘のようだ。エリザベスのはかない夢は石鹸の泡のように消え去ってしまった。やはり多くを望んではいけなかったのだ。エリザベスはため息が出そうなのをなんとか我慢した。おまけにおそらくカミラが近くにいるせいで、エリザベスのところには誰も寄ってこない。友人も知り合いもたくさんいるが、カミラの毒舌はサウスハンプトンの社交界ではとても有名だった。

「エリザベス!」

そうしてやっと声をかけてくれたのは、デニー・レドナップだった。
「レドナップ海尉」
「こんばんわ、カミラ。この間お会いしたときに、海尉艦長に昇進したと言い忘れたようですね」
「あら、そうでしたの。私、制服には疎くって」
カミラが言うのにレドナップは「皆さんそうです」と笑ってこたえた。レドナップも人は良いのだ。
「ところでエリザベス。やっとあなたを見つけた。どうか、私と一曲踊っていただきたい」
「ええ、でも……」
エリザベスはなんとか断る理由を見つけたかったのだが、都合のいい口実がみつからなかった。
「まぁ、エリザベス。私子供じゃないのよ。ぜひ、踊っていらっしゃいな。こんなご立派な方に申し込まれるなんて、幸せだわね」
カミラはまるでそれが自分のことのように言った。レドナップと本当に踊りたいのはカミラではないのだろうか? エリザベスはそれ以上何も言えず、レドナップとフロアに出た。

 相手は望んだシルヴィではなかったが、レドナップもなかなかの踊り手だった。少々手荒な感じはしたが、エリザベスは想像していたように自分が右に左に振り回されるのを楽しんだ。曲が速いワルツに変わると、レドナップのリードはますます早くなり、エリザベスはついていくのが大変になった。二人は人々の間を縫うようにステップを踏んだ。エリザベスが子供の頃にはまだ、舞踏会といえばカドリールが主流だったが、最近はどこの舞踏会でもおとなしいダンスはすっかり踊られなくなってしまった。
ワルツを2曲も踊ると、エリザベスは自分がふらふらしているのがわかった。普段庭仕事しているとはいえ、急に激しい運動をするとこたえる。「ああ、レドナップさん。少し休憩させてください。目が回りそうですわ」とエリザベスが告げると、レドナップはエリザベスをフロアの陰になった窓の近くのアルコーブの下へ連れて行った。カーテンの陰に隠れるようにして、レドナップはエリザベスを椅子に座らせた。エリザベスは本当に気分が悪く、目の前が真っ暗になる寸前で、アルコーブの柱に身体を持たせかけてなんとか息を抑えようとしていた。
「エリザベス。明日、私とポーツマスへ行ってください」

 突然、エリザベスにレドナップが言った。エリザベスにはレドナップの言っていることがよくわからなかった。それより、本当に自分の視界が暗くなって、気を失いそうだったのだ。
「――わたくし」

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