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夜の庭   第一章   


                           -11-



 その後、エリザベスは遠くのほうで誰かが言い争っているのを聞いた。しかし、それが誰かはわからなかった。ああ、暑くもないのに汗が出ているみたい。きっと人の多さに参ってしまったのだわ。ここから逃げ出さなければ。自分の庭で日にあたる暑さとは違い、ここには風というものが全く感じられない。おまけにここにいる人々の強い芳香。まるでお酒に酔ってしまったみたい……そして、エリザベスはふと自分の身体が床から浮くのを感じ、自分がどうなったのかわからなくなってしまった。

 エリザベスが次に気が付いたのは、自分が乗ってきた馬車の中だった。カミラが舞踏会の途中で帰ってきたことに文句を言っているのが聞こえる。そのカミラの肩にエリザベスは頭を寄せ掛けていた。馬車の窓が開いていて気持ちが良い。エリザベスはうつろに目を開けたが、意識は朦朧としていた。

「エリザベス? エリザベス?」
カミラが声をかけたがエリザベスは返事ができなかった。体がだるくて口がきけない……もたれているのは気持ちがいいわ。少しの間だけ、このままでいさせてほしい。カミラが迷惑に思っているのはわかっているけど、少しの間だけ……エリザベスはまた目を閉じた。そして昔、何度も夢見たシルヴィと踊る夢を再び見た。

 これは夢だってわかってる。けど、とても幸せな気分。彼が私の手を取って、面白いようにくるくる私を回すの。彼の暖かい大きな手がしっかり私の腰を支えてくれているから大丈夫。鳥の羽みたいに飛んでいきそうだけれど、飛んでいかないわ。彼のブルーグレーの瞳がきれい。夢の中ならこんな風に微笑んでくれるのね。ああ。私は彼のことが本当に好きなのだわ。夢の中なら彼も私を愛してくれるみたい……ロード・シルヴィが本当に私を愛してくれたら……こんな風に夢ではなく……

エリザベスの閉じたまぶたに涙がにじんだ。


 馬車がローウェルの屋敷に着いた。エリザベスは自分の顔を何かが触ったのに驚いて目を開けた。カミラかと思ったがそうではなかった。ジョンは先に下りたが、シルヴィは自分がと言ってエリザベスを下ろしてくれようとしていた。その時涙を指でぬぐってくれていたのだ。

「夢を見たのか?」
 シルヴィが小声でたずねた。エリザベスは現実に戻ったがシルヴィの問いには答えられなかった。その代わりに、彼の前で眠った挙句、泣いていたのに気づいて恥ずかしさで死にそうな気分になった。執事のビッグスが馬車の扉を開け、エリザベスはシルヴィが差し出した手を借りてよろよろしながら馬車を降りた。彼の前でもう1分たりとも過ごしたくない。エリザベスは「ごめんなさい」と言って、玄関に迎えに出てきたべネに手をかり、自分の部屋へ急いで下がった。

 部屋に何とか逃げ込んだエリザベスは、しばらく誰も部屋に近づけないようにべネに言って下がらせた。自分は一体何をやってしまったのだろう。シルヴィの前で……エリザベスは涙を止めることができなかった。さっき自分が見た夢は、自分が本当に望んでいたこと。だから夢に彼が出てきて、私と踊ったのだ。そうしたかったと心の中で強く思っていたのだわ。自分はまるで駄々をこねている子供のようだ。本当にみっともない。彼は私がどう思っていたかなんて知らないだろうけど、彼の前であんな姿をみせるなんて……エリザベスはもはや涙を止める方法もわからず、自分のベッドに身体を横たえて泣きながら深い眠りに落ちていった。


 夜中、変な時間に眠りについたせいで、エリザベスは目がさめてしまった。ベネが来てくれたのだろう、部屋の明かりは全て消されており、窓も閉まっている。エリザベスはベッドから起きだして、少し外の空気にあたるためにベランダへ出る扉を開けた。ひんやりした冷たい空気が部屋の中へ流れ込む。疲れてほてっているようだった体から体温が一気に奪われていく。もうイースターが来たというのに……エリザベスは空に高くのぼった月を見た。月の光がまぶしいわけはないが、目を閉じてガラスの扉にもたれかかった。

 本当に家を探さなければ。この家のお金の価値のない思い出のものはできる限り持って出よう。自分がいなくなったら、カミラはきっと全部捨ててしまうだろうから。父の書斎の本を持ち出したら、カミラは怒るだろうか? エリザベスにはどうしても持って行きたい本が何冊かあった。昔、家庭教師のミセス・ジョイスと勉強した百科事典や歴史の本。それにフランス語とドイツ語の辞書、できればスペイン語とアラブ語の辞書も…百科事典はきっとだめね。あれはコレクションとして並べておくのにいいものだから。ロンドンの父親が借りていた部屋にもいくらかはあると聞いているけれど……それに、いつも使っている植物図鑑は……その図鑑に書かれていることは、エリザベスの頭の中に全てあった。しかし、その本はどうしても手元に置いておきたい。もし、だめだといわれたら、自分で新しいのを買う? エリザベスはそして、ふと我に返った。

 よく考えてみれば、自分にはもう手入れする庭はないのだ。図鑑など持っていてどうするというのだ。エリザベスは大きくため息をついて頭をふった。そして、ベランダにむかって開け放たれたガラス戸になんとかもたれかり、まるで月から自分を隠すように目の上を腕で覆った。

なにもかも変わってしまう。全てなくなる。全て――

 ベランダからはエリザベスの手入れしている少し南下がりの広大な庭が一望できたが、エリザベスは庭を見ようとはしなかった。月明かりの下、木々の頭のてっぺんに飛び出た毛のような枝葉だけが、音を立てずに冷たい風にそよいでいる。その下に眠りについている小さな草花たち。食べるのに困らない程度のお金はあるとはいえ、エリザベスにとって屋敷を出るということはとてつもなく恐ろしい孤独を意味していた。自分が連れて行けるのはベネだけ。後は何もない。アリソンも今までと変わらず、自分と友達でいてくれるだろうか。

この復活祭のお祭りが終わったら、シルヴィは戻らない。二度と。

 エリザベスはシルヴィの前ではせめて、毅然とした態度でいたかった。たとえ、自分があと少しでここから出て行かなければならない惨めな境遇であっても。彼は貴族の中でもかなり身分は高いし大金持ちだ。そんな人間がわざわざ、自分のような貧乏で落ちぶれた貴族の田舎者と結婚するだろうか? 確かに彼は、有り余るほどお金を持っていながら、国に奉仕している変わり者だ。けれど、ロンドンにはもっと素敵な女性たちがたくさんいる。シルヴィを自分に勧めたピアソン卿は、父の大事な友人だったから、私のことをかわいそうに思ったに違いない。シルヴィにとっては迷惑な話だっただろう。きっと、どうしてもと勧められて、ここに来ることを拒めなかったのだ。彼はここにただ滞在しただけ。田舎の生活を少し楽しんで、日々の疲れを癒しにきただけ。

 全てのことに期待をしないこと。エリザベスはそれでなんとかやってきた。自分が期待しなければ裏切られることもない。もし、シルヴィのことで自分が期待しすぎて、それがうまくいかなかったら、どうしたってひどく傷つくことになる。自分ひとりで生きていかねばならないのに、そんな痛手を追ってはいられない。ここ数日の間に、彼と自分にあったことは良い思い出にしよう。彼が触れた自分の唇。頬。そして抱きしめられたときのあの心地よい気分。エリザベスはそれを思い出すように、持って出たショールで自分の体をきつく巻いた。これまでになかったすばらしい思い出。今までに若いときのシルヴィの夢を何度も見たように、これからはこの夢を何度も見るだろう。エリザベスは体が冷え切ってしまうまでそこにいた。

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