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夜の庭   第一章   


                           -12-



 イースターのお祭りが終わった翌日の朝早く、エリザベスはいつもと同じように早く起きだして一人で朝食を取っていた。シルヴィは大概エリザベスより少し後に食堂へやってくるし、ジョンの家族は昨日のお祭りで疲れきって、まだ起きだす気配もない。エリザベスはそれでもシルヴィが食堂へやってくる前にそこを出たかった。昨日の夜、シルヴィあてでロンドンから電報が来ていた。外務省からの呼び出し命令だった。もともと滞在は一週間の予定だった。まるで長い夢から覚めたような気分だ。彼はピアソン卿の顔を立てるためにやってきて、その役目は果たした。そして普通の日々へ戻っていく。せめて、ここで過ごした日々が、彼の次の仕事の活力となってくれればいいけれど。エリザベスは自分のことは考えられなかった。考えたくなかった。昨日のあの恥ずかしい自分を思い出したくなかった。レドナップと踊ったあと、自分が一体どうなったのか。遠くの方で言い争っていたのは多分、レドナップとシルヴィだ。何があったのか知りたくもない。その後であんな恥ずかしい醜態をシルヴィにさらしたことを考えると、エリザベスは今でも頭に血が上って真っ赤になるようだった。

 食事が終わって食堂の席を立とうとしたとき、エリザベスは窓の外に馬車がやってくるのに気づいた。ちらりとレドナップが乗っているのが見えた。こんな早くにどうして? エリザベスは顔をしかめた。

「お嬢様、レドナップ艦長です」ビッグスが食堂へやってきて言った。

「応接間にお通しして」
エリザベスは頭に手をやり、髪が乱れていないことを確認した。ビッグスに遅れて食堂を出ようとしたその時、シルヴィが食堂の正面の階段を降りてきた。エリザベスは食堂の入り口から階段の途中にいるシルヴィにひざをかがめて小さく挨拶し、急いで応接間へ向かった。
「ロード・シルヴィに昨日来ていたタイムズとルモンドをお勧めして」
エリザベスはビッグスに小声で言った。シルヴィに何も見られたくなかったし、感づかれたくない。


応接間ではレドナップが落ち着かない様子でエリザベスを待ち構えていた。
「おはようございます、レイディ・エリザベス」
エリザベスはさっきシルヴィにしたのと同じように挨拶した。
「まだボンネットもつけられていないようだが。用意はできていますか?」
「用意?」
レドナップが言ったことを全く飲み込めないエリザベスはレドナップに聞き返した。
「そうです。今日、私とポーツマスへ行くと約束したではありませんか」
「約束?」
エリザベスはあまりにも驚いて言葉が出なくなってしまった。
「覚えていらっしゃらないのですか? 昨日、あなたは『はい』と答えました。この耳でちゃんとききましたよ」
レドナップはエリザベスを責めるように言った。
「一体いつ……いつそんなことを。私、覚えていません」
「ひどいな。私がどんな覚悟で言ったか、覚えていらっしゃらないと言うのですか。昨日、ダンスの後に私が訊ねたら、あなたは……」

「彼女は失神しそうだった。君がひどくふりまわしたからだ」
エリザベスの後ろから、太くてぴんと張った例の声がした。振り返ると、シルヴィが応接間の入り口に立っていた。燃えるような目でレドナップをにらんでいる。
「またあなたですか。どうしてそういつも、人の話に割り込もうとするのです。私はエリザベスに話をしているのだ。あなたには関係ない」
そうは言ったものの、レドナップはシルヴィの姿を見て一瞬ひるんだようだった。エリザベスはシルヴィのそのただならぬ様子に身体がすくんだ。

「いいや、目の前のご婦人がだまされて連れて行かれるところを黙ってみているわけにはいかない。彼女がどうにもならなくなったところにつけこんで、無理に話を進めようとする男は紳士などではない。帰りたまえ」
シルヴィはレドナップに全く臆する様子がなかった。

昨日、誰かが言い争っていたと思ったのは間違いではない。この二人だ……

一方のレドナップは不満気にシルヴィを見ていたが、観念したように大きくため息をついて言った。
「エリザベス。では、この方の前ではっきり申し上げましょう。あなたを愛しています」
レドナップはエリザベスに一歩近づいた。
「私と結婚してください」
エリザベスは胸を押さえた。

一体何が……どうしていきなりそんなことに……

「確かに私はあなたに策を弄した。1年前、ここへやってきたときもあなたは私の気持ちを知っていたはずだ。前回は任務で仕方なくここを去りましたが、どうしてもあなたと結婚したいと思ったから私はこうしてここへまたやってきた。私には金はない。けど、きっと幸せにしてみせます」
胸が痛い。どうして?
「私――私は……すぐにお返事できません。そんなに急に……決められません」
エリザベスの左手はまた無意識に反対側の手の指輪を触っていた。
「すぐにとは言いません。けれど、あなたがきっと私を選んでくれると信じています。私が誠実な人間だと言うことはあなたもご存知でしょう」

「誠実な人間が、あんなことをするのか」
レドナップの言ったことをシルヴィはせせら笑った。エリザベスはシルヴィを一瞥すると、目を伏せて言った。
「どうか食堂へ、ロード・シルヴィ。ビッグスが待っておりますわ」
シルヴィは目を丸くしてエリザベスを見たが、大きく息を吸い込んで応接間の入り口の壁をどんとたたいた。そして、きびすを返して大またで部屋を出て行った。

「レドナップさん」
エリザベスは自分の心臓がどうにかなりそうな気がした。なんとか小さく息を吸い込んで、レドナップの方へ向き直った。
「大変残念ですけれど、本日はご一緒できません」
「――わかっています」
レドナップはエリザベスの手を取った。「私の愛は変わりませんから。どうか、私を信用してください。あなたを愛しています」


 レドナップはエリザベスの手を無理矢理とって口づけ、屋敷を去った。エリザベスは応接間の壁にもたれた。ああ、めまいがする。レドナップのやり方は好きではないけれど、彼は本当は誠実な人間だ。自分の前で策を弄したと告白した。責めるだけの誰かとは違う。

エリザベスは気持ちを落ち着けるために小走りに庭に出ていった。


 エリザベスは広大な庭の半分をずっと走った。自分の気持ちを落ち着けるためには、他に何も考えられないほど、体がつらい状況でなければならなかった。のどがひゅうひゅういって呼吸がおかしくなった。普段は来ないローウェルの庭の境界にある森の手前まで、エリザベスはやってきた。そしてまだ冷たい草の上に倒れこんだ。朝露が服の上からしみる。

 男性に結婚を申し込まれるということをずっと望んでいた。たとえ財産などなくても、自分を愛してくれる人がきっといるはず。そして、それはレドナップに違いない。エリザベスは大きく息を吸い込んだ。それなのにどうしてこんなに悲しいのだろう。こんな自分をもらってくれる人がいるというのに。

いいえ。理由は簡単。胸がきゅうっと縮まるような痛み。レドナップにはそれを感じない。私が望んでいるのは、遠いところへ帰ってしまうあの人。エリザベスの目に涙がにじんだ。

どうにもならない。自分が何を望んでも。

 叔母のエレンがピアソン卿から手紙をもらったと聞いたとき、エリザベスは珍しく舞い上がった。自分がずっと夢見ていたシルヴィがここへやってくる。それも単なる休暇ではない。縁談の相手としてだ。はじめの何日かは確かに彼も田舎の生活を楽しんだだろう。外務省の仕事などエリザベスには想像もつかないことだが、ロンドンやパリを行き来する忙しい生活であれば、ここでの時間の流れは死ぬほど退屈だったに違いない。遠乗りに行こうと言ったのも、退屈を紛らわすため。私に触れたのも……エリザベスはそのときのことを思い出した。あんな風に……あんな風に抱きしめられたことはなかった。

 大きく深呼吸してエリザベスは草の上に起き上がった。服にしみこんだ朝露が冷たい。エリザベスは自分の目じりを手でぬぐった。自分の選択肢は2つしかない。レドナップのところへ行くか、自分でやっていくか。生活していくのに必要なお金はある。けれど、ひとりで生活するのだ。ベネがいるとはいえ、一人で全てを……エリザベスは頭を振った。いいえ、こんなことで迷っていてどうするの? 自分にレドナップが愛せると言うのか。シルヴィとのことはきっと自分の心の中で、一生消えてなくならないだろう。心の中で自分の夫を裏切りながら、普通に生活などできはしない。答えは始めから決まっていたのだ。

 エリザベスは庭の境界から古い花々を摘み取りながら屋敷の方へ戻ってきた。時々、どうしようもなく涙が零れ落ちた。もう少し庭にいても良かったが、姿が見えないのを皆が心配しているだろう。シルヴィも午前中には発つだろうし。静かにいつもどおりの生活に戻らなければ。

 屋敷に程近いところで、地面に落ちた木蓮の大きな花びらを拾い上げようとしたその時、エリザベスはサンザシの垣根の越しに誰かがいるのに気づいた。

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