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夜の庭   第一章   


                           -13-



「ロード・シルヴィ」

 どうしてこの人は、こんなに人をびっくりさせるのが得意なんだろう。エリザベスは胸が痛くなった。きっと自分の顔はめちゃくちゃだ。服も泥だらけだし。けれど、今更どうしようもない。

「顔色が悪いようだが」
シルヴィは垣根を飛び越えてこちらへやってきた。
「いいえ。そんなことありませんわ」
エリザベスはうつむいて表情をさとられないようにした。
「すみません、ちょっと着替えてまいります」
エリザベスは早くその場を立ち去りたかった。彼と口をききたくなかった。このままそっとしておいてほしかった。しかし、シルヴィは逃げようとしたエリザベスの腕を突然つかんだ。
「エリザベス――」
シルヴィはすぐ手を離したが、エリザベスは顔をしかめた。
「なんでしょう?」
もし、彼に何かできることがあるのだとすれば、これが最後だわ。エリザベスも無理に微笑んで見せた。

「レドナップと結婚するのは間違いだ」


 エリザベスは自分の耳を疑った。垣根の間を縫って南の方からびゅうっと風が吹いた。最近集められた枯れ草や雑草の山が舞い上がる。どうしてそんなこと言うの。今の言葉は何かきっと聞き間違えたのだ。エリザベスの腕にあった木蓮の花もまた下に落ち、花びらがばらばらになった。
「――今、なんとおっしゃいました?」
聞きなおさずにはいられなかった。しかし、シルヴィはまた同じ事を言った。
「レドナップと結婚するなと言ったのだ」

 エリザベスはシルヴィを唖然としてみていたが、思い出したように口を開いた。
「どうして? どうしてそんなことを言われるのです。それは…それは私が決めることです。あの方が嫌いだからと言って、そんな風に言われるなんて……」
それを聞いたシルヴィは鋭い視線をエリザベスに向けた。
「君はレドナップのことを何も知らない。あの男は信用ならない」
シルヴィの真剣な様子に驚きはしたものの、エリザベスは落ち着いていた。
「私よりレドナップさんのことをご存知だと?」
「少なくとも君よりは」
エリザベスはため息をついた。何を一体……

「今日、いつごろお発ちになります?」
シルヴィはエリザベスをじっと見つめていた。そして、一呼吸おいてから静かに言った。

「帰らない。ロンドンに帰るのはやめた」
一瞬、唖然としたエリザベスだったが、「ご自由に」と言い残し、シルヴィに背を向けた。

 それからエリザベスはばらばらになった木蓮の花を拾わないどころか、自分が抱きかかえていた枯れた花々を小道にぶちまけ、屋敷の方へ走った。
勝手にすればいいわ。あんなこと言うなんて…エリザベスは屋敷の中に入って自分の部屋へ駆け上がった。ベネが階段のところでお嬢様と声をかけたが、エリザベスは「ひとりにしておいて」と言って、部屋のドアを閉めた。頭痛が酷くなってきた。



 エリザベスは昼も具合が悪いからと言って食堂へ降りていかなかった。エレンが心配して様子を見に来たが、エリザベスはレドナップのこともシルヴィのことも黙っていた。シルヴィから事の顛末を聞いていたエレンは、父親が亡くなってからずっと気丈に振舞ってきたエリザベスが状況に翻弄されているのを見て心を痛めていた。
「リジー。あなたが怒るのも無理はないけれど、ロード・シルヴィはレドナップ艦長がここに来られる前に、あなたとお話をしたかったそうよ。あなたに結婚を申し込むつもりだったのよ、きっと。」
エリザベスはエレンが自分を慰めるために勝手にそう言っているのだと思った。
「おばさま。ロード・シルヴィから何か言われていらっしゃったの?」
エリザベスは長いすに座って、クッションに身体を預けていた。
「レドナップがあなたに結婚を申し込んだと。それだけよ」
やっぱり……そんなこと言うわけがないわ。エリザベスはがっかりした。エレンがエリザベスの隣に腰掛け、エリザベスの手を取って自分のひざに置いた。
「ロード・シルヴィはここを出て行かれるそうよ」
それを聞いたエリザベスはクッションから頭を上げた。
「さっきは帰らないと言っていたのに」
「いいえ、ここを出て行かれるだけ。朝、電報を早く受け取りたいから町の宿に泊まると」
町の宿……ひどい言い訳。そんなに早く電報を受け取りたいならロンドンに戻ればいいのに。でももうどうでもいいわ。ここを出て行かれるのなら、大変結構。私は一人になりたいのだし。エリザベスは再びクッションに頭をうずめた。
「エリザベス。ロード・シルヴィはもうすぐお発ちになるわ。最後のご挨拶だけはきちんとして頂戴」
エレンはエリザベスの肩に手を掛けてそう言った。
「ここの主人はジョンよ。ジョンがお見送りすればいいわ」
「そんなこと、亡くなったあなたのお父様もお母様も絶対に許しませんよ。さあ、その顔を何とかして下に降りていらっしゃい」
 エリザベスの額にそっとキスしてエレンは部屋を出て行った。代わりにベネが身支度するのに必要なものを抱えてやってきた。エリザベスは何とか立ち上がって自分の化粧台の前に立った。ひどい顔……ベネが洗面器に水を注いでいる。エリザベスはため息をひとつついて仕度を始めた。


 階下に降りていくと、もう皆外に出ていた。ホールの外には、春に咲く薔薇の香りが漂っている。馬車につなぐには美しすぎるカルルスとポルックスがおとなしく主人を待っていた。
「とても楽しい滞在でした。どうもありがとう」
シルヴィは皆に向かって言った。
「どうしてですか。町の宿になどいかれなくても、ここで……」
事情を知らないジョンはシルヴィに食い下がったが、シルヴィは首を振った。
「残念ながら、そういうわけにはいかないのです。けれど、明日また来ますから」
シルヴィはそう言って、エリザベスの方へやってきた。エリザベスはびくっと身体を震わせて後ろへ下がりかけたが、何とか踏みとどまった。

「エリザベス」
 エリザベスが自分から差し出さなかった手をシルヴィが半ば強引に取ってキスした。胸が痛い。まるで自分がシルヴィを追い払ったようになってしまった。そんなことは望んでいなかったのに。彼には気持ちよくここを離れてほしかった。

 そしてシルヴィは行ってしまった。さっきは出て行ってもらえばせいせいするとさえ思っていたのに、今となってはまるで灯が消えてしまったようだ。ジョンの子供たちがそこいら中を走り回っているのに。子供たちの声がいつものように耳に入ってこない。エリザベスは自室に戻って、その日は部屋を出ることはなかった。

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