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夜の庭   第一章   


                        -5-



 「エリザベス」

 エリザベスは自分の名前を呼ばれて、かけていたショールを胸の前にかき集めた。

「ロミオとジュリエットを演るにはちょっと年を取りすぎたようだが」
 シルヴィはそう言ってじっとエリザベスを見ていた。何が言いたいの? 私たちのこと? エリザベスも視線をはずすことが出来ず、シルヴィが考えていることがわからず彼を見つめ返していた。ロード・シルヴィが、こんなに自分を長く見つめているのはなぜ? 疲れていなければきっと、こんな風に普通にはしていられないだろうけど……

 エリザベスは長いすに座りなおした。そして無意識に右手の指輪を触っていた。シルヴィは自分の部屋の柵を軽々と飛び越えエリザベスの部屋のバルコニーの下にやってきた。

「こんな年に見合わないことはしたくないが、君を怒らせたままでいるのはいやだから……君に断りもなくレドナップの誘いを断って悪かった。私を許してほしい」
 シルヴィはそう言って柵ごしにエリザベスの前に片ひざをついて頭をたれた。エリザベスはどうしたらよいのかわからなくなった。彼をひざまづかせるなんて……エリザベスは思わず柵を越えて自分の手を差し出した。
「お願いですから、こんなことなさらないでください。私は別に……」
シルヴィが顔を上げた。
――なんてきれいな瞳なの。昔とちっとも変わっていない。まるで吸い込まれそう……

 シルヴィをそのままの姿で居させるわけにはいかないので、エリザベスはもう一度シルヴィに立ち上がるようにお願いした。柵の上から差し出した手をシルヴィが掴んで立ち上がった。暖かい手だ。
「君は未開の地に咲く美しい薔薇だ。君を見た男はみんな虜になる」
それを聞いてエリザベスはふっと笑った。
「都会では皆、そんな歯の浮くようなお世辞を言うのですか。それがもし本当なら、私はこんな年まで一人でいませんわ」
「君が一人でいたのは別の理由だろう?」
エリザベスはシルヴィが浮かべているやさしい表情と裏腹な鋭い言葉にはっとした。この人は、一体何を聞いたのだろう? エリザベスはその瞳が語ることを読み取れなかった。

「エリザベス。君が許してくれるなら、明日は遠乗りに出かけたい。馬に少し運動させないと」
このまぶしい笑顔に勝てる人間などいない。エリザベスは顔を上げて微笑み、頷いた。
「どうぞ、行ってらして。退屈していらっしゃるのね。庭仕事ばかり手伝わせたから……西の森には今たくさん水仙が咲いていて、とてもきれいなんですのよ」
シルヴィはちょっと顔をひねった。
「もちろん君も行くのだ」
エリザベスは驚いて固まってしまった。
「どうして私が一人で行くなどと。君が居なければ。だからこうして許しを請いに来た」
「ロード・シルヴィ」
エリザベスはシルヴィの目を見つめた。本当になんてきれいな瞳。
「君の甥たちは君を遊び相手だと思っているんだろう? でも、君の相手は私だ。そのためにきたのだから」
その言葉はエリザベスの心を掴んだが、すぐに思い直した。物ほしそうにしてはいけない。彼が自分を選ぶ理由が見つけられないのに。
「わかりました。では私も参りましょう」
エリザベスはようやく微笑を返した。

 シルヴィはエリザベスの指に唇をあて、お休みの挨拶をすると、「少し早いが、五時に」と言い残して、またベランダの柵を乗り越えて自分の部屋へ戻っていった。そのまぶしい白いシャツの後姿を見ながら、エリザベスは大きなため息をついた。

 今日、他に何も考えられないほど疲れていて良かったとエリザベスは思った。普通の状態だったら、自分はどうなっていただろう。こんなに落ち着いていられるわけがない。エリザベスは全く集中できない本を持って部屋の中へ戻り、ベッドに入った。昔からずっとそうしていたように、眠りに落ちる少し前、シルヴィが自分を見て微笑むところを頭に思い浮かべるのだ。つい先日、シルヴィがここへ現れる前は、それは昔の若い姿のままで、だんだん色あせていくようだった。しかし彼がここへやってきてからは、それは一変した。落ち着いた大人の男性としての魅力を振りまいている、心を奪わずにいられないシルヴィ。一体ロンドンではどれほどの女性を悩ませているのだろう。けど今の間だけ、ここにいる間だけは私のもの。エリザベスは幸せだった。

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