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夜の庭 第一章 -6- |
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翌朝、エリザベスはいつもより少しだけ早く起きて屋敷の台所へ行き、そこを取り仕切っているジュリー・ローガンに、二人分のランチを作ってくれるようにたのんだ。ジュリーは意味深な笑みを浮かべたが、三十分後にはバスケットに詰めたランチとワインをエリザベスに手渡した。 五時少し前に、着替えて食堂へ降りて行ったエリザベスは、そこで本当に完璧な乗馬服姿のシルヴィを見つけた。しなやかな皮の鞭を手にしたすらりとした姿のシルヴィは、エリザベスの心臓の鼓動をおかしくした。 「おはよう。エリザベス。いい天気で良かった」 シルヴィの笑顔がまぶしい。 「ええ。本当に」 エリザベスはうつろに答えて、シルヴィのほうをあまり見ないようにして外へ出た。 表に用意されていた馬はエリザベスの馬ではなかった。シルヴィが前日、執事のビッグスに、自分が乗ってきた馬車につないであった二頭を用意してほしいと頼んでいたと言うのだ。エリザベスは乗馬は得意だったが、知らない馬に乗るのは本当は少し気が引けた。ましてシルヴィの馬となればなおさらだ。 「君には悪いが、片方だけと言うわけに行かないのでね」 シルヴィが笑って言うのに、エリザベスは仕方なく、見た目は黒く怖そうだが、おとなしいというカルスス号に乗った。そして、シルヴィが昨日言っていた、馬を少し運動させなければと言うのは、本当のことかもしれないと思った。ローウェルの屋敷にももちろん厩舎はあるが、馬をきちんと扱える馬番がいるかどうか疑われているのだ。馬車につながれていたカルルスとポルックスは馬車馬にはもったいないくらいのアラブ種の立派な兄弟馬だ。知らない土地の知らない馬番に自分の大切な馬を預けられないと思うのも当たり前だろうか。 カルルスはおとなしいがしっかりした馬で、エリザベスが乗った後、首をやさしくさすると、くすぐったそうにブルルと声を上げた。普段はシルヴィが乗っている馬だが、むら気のあるポルックスよりはカルルスの方が乗りやすいだろうと言って譲ってくれたのだ。エリザベスの馬への命令が確実なせいか、カルルスはエリザベスの言うことを良く聞いた。馬と心を通わせ始めると、エリザベスはカルルスに乗っているのがだんだん楽しくなってきた。シルヴィはそれを見て取って、しばらくすると、まるで調教するように馬の走らせ方をエリザベスに指示した。時に早足で、時に全速で、エリザベスはシルヴィとともに馬を走らせた。乗馬がこんなに楽しいものだったなんて! エリザベスは昔、父親に教えてもらったことが無駄になっていないと感じてうれしかった。 西の森の中を半分ほど進んだところで、エリザベスはシルヴィに馬を降りてこのあたりにつないでおきましょうと言った。この先、すぐのところに小さな美しい泉があって、そこでジュリーに作ってもらったランチボックスを広げようと思っていたのだ。 森の中は幻想的だった。ひんやりした空気の中、緑の葉陰から洩れる光が、ところどころに地上に差し込んでいる様は、まるで天使が降りてくる舞台のようだ。光が差し込んだ先には、白と青のアイリスや、黄色い水仙、センボンヤリが群生している。 「私がご案内できるのはこういうところしかありません。都会の方が楽しめるかどうかわかりませんが」 エリザベスはシルヴィが退屈していないか心配していた。 「君は自分を低く見積もりすぎだ、エリザベス。都会に住んでいる人間がこういう場所をありがたがらないわけがない。それが美しい女性と一緒なら、なおさらだ」 シルヴィはそう言って、エリザベスが馬から下ろした荷物を持って、自分の腕をエリザベスに差し出した。エリザベスは自分が赤くなったのを多分見られただろうと思いながら、シルヴィの腕に手をかけた。 なんて幸せな時間。これまでの渇ききった生活は一体何だったのだろう? シルヴィが来てから自分の気持ちは一変してしまった。彼が自分に何かしたわけではないし、自分自身も普段の生活を大きく変えたわけではない。それなのに……彼がそばにいるだけで、昔、かなわない恋を毎晩夢に見たあの少女のころに戻るようだ。常に心臓がどきどきして、つまらないことで胸が張り裂けそうになったり、不機嫌になったり、こうしてこの世の幸せを味わったり。 「――ベス? エリザベス?」 シルヴィが自分の名前を呼んだのにエリザベスはぼんやりしていて気づくのが遅れた。シルヴィは立ち止まってエリザベスの方を振り返った。 「君がぼんやりしていると、何を考えているのか知りたくなる」 「私――」 エリザベスは一瞬、シルヴィの例の瞳に射抜かれて本当のことを言いそうになったが、そんなことを口にすることなどできるわけがなかった。 「言いませんわ。絶対」 エリザベスはにっこり笑って、シルヴィをおいて走り出した。乗馬用のズボンのおかげで、いつもより動き回るのがずっと楽だ。あの堅苦しくて重いコルセットときたら! 本当に女性を縛っておくためのものなのだわ。 「エリザベス!」 何て開放感! 何て幸せ。荷物を持ったシルヴィが、後からゆっくり追いかけてきている。しかし、エリザベスは走るのをやめなかった。走っていると風を感じる。頬を流れる冷たい森の空気が、いつしか自分を包み込んでふわふわと泉のほうへいざなうようだ。このままここでなら、死んでもいい。 |
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