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夜の庭 第二章 -10- |
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翌日は良い天気だった。レイディ・オリヴィアは、バーミンガムの屋敷から付き添ってきたメイドのアビゲイルと、午前中の日課にしている散歩に出ていた。レイディ・オリヴィアが来てからエリザベスの方の日課は全くこなせていい。ピアノも弾いていなければ絵も描いていないし、刺繍もしていない。朝食を済ませた後はディケンズを手にしてみたが、1ページも頭に入っては来なかった。 昨日、フィッツハーバートから聞いたことがエリザベスを果てしなく落ち込ませていた。シルヴィはパリで女性と一緒にいる。男性だから、仕事のついでにそういうこともあるのかもしれない。けど、それは家庭をきちんと守ってのことだ。それともシルヴィは初めからそんなつもりはなかった? 「奥様!」 庭の向こう側からアビゲイルの叫ぶ声が聞こえた。エリザベスが驚いて立ち上がると、続けてレイディ・オリヴィアのうめく声がした。 「騒ぐんじゃありません。私は……」 エリザベスが庭に出るより先に、エヴァンズが外に飛び出していた。ハドソンの代わりに庭木に水をやっているゴードンもどこからか出てきて、声のする方を探した。小さな庭なのに、背の高い垣根は先が全く見えない。エリザベスは何が起こったかわからずにいたが、すぐに彼らはレイディ・オリヴィアを連れて戻ってきた。 前日の疲れのせいか、レイディ・オリヴィアは庭のあずまやの手前に敷いてある石段でつまづいて転んだらしかった。ただころんだだけならまだしも、レイディ・オリヴィアは石段の脇においてあった煉瓦に足をひどく打ちつけていた。 もともと悪くしている足にうちみが重なって、レイディ・オリヴィアの足は午後になって大きく腫れてきた。口にこそ出さなかったが、ひどく痛むに違いない。エヴァンズもエリザベスもロンドンのグロブナー家のかかりつけの医者であるドクター・ブリッジスに診てもらうように勧めたが、レイディ・オリヴィアはドクター・ブリッジスが既にその息子に代替わりしているのを聞いて、絶対に嫌だと言い張った。そして、かかりつけの医者のいるバーミンガムに帰ると言い出した。しかし、その足では立つことさえままならず、レイディ・オリヴィアは結局、痛みが治まるまで寝慣れない客室のベッドで過ごすことになった。 痛みで機嫌の悪くなったレイディ・オリヴィアは手がつけられず、誰彼かまわず悪態をついた。レイディ・オリヴィアのことをよく知らない屋敷の若いメイドはカーテンの開け閉めの音がうるさいと叱られ、行儀のなっていないものはバーミンガムの屋敷で修行してきてもらうと脅されたし、厨房が用意した野菜を裏ごししたスープややわらかいパンプディングなども、ただ転んだだけなのに病人扱いするなと突き返した。庭に出ていたゴードンにさえ、御者がそんな仕事までしなくてよろしい、馬の世話に専念せよとわざわざエヴァンズを呼びつけて言いに行かせた。 持ってこられた食事の皿の並べ方から、ナプキンのたたみ方、レイディ・オリヴィアの並びの廊下の端にある納戸の扉がきぃきぃ音を立てること、果てはメイドの足音まで、とにかく耳に入る音、目に付くもの全てにレイディ・オリヴィアは文句を言った。おかげで屋敷の使用人たちは必要最小限のことでしか関わろうとしなくなった。 バーミンガムの屋敷とは違い、この屋敷ではロード・シルヴィにロンドンで雇われた使用人が多く、彼らは一斉に不満を持ち始めていた。エリザベスが来てから、いろいろな事件はあってものんびりした感じだった屋敷の中がぴりぴりしている。 エリザベスは意を決して普段はあまり降りて行かないようにしていた階下の厨房へ行き、使用人たちを集めて皆の前で少しの間、我慢してくれるように頼んだ。そしてあまりに理不尽だと思われることについては自分に話をするように言った。 この時、一番大変な思いをしていたのはアビゲイルだった。夜中に何度も水を持って来るように言われたり、肌着がちくちくするのでもう一度洗いなおすように言われたりしている。エリザベスは心配してアビゲイルに屋敷の使用人をできるだけ使うように言ったが、アビゲイル自身はレイディ・オリヴィアのことを良くわかっており、自分は慣れているので大丈夫だと言った。ただ、機嫌の悪いときには奥様はあまりかまわない方が良いと、エリザベスにも執事のエヴァンズにも教えてくれた。 エリザベスは、レイディ・オリヴィアが足を医者に診せないのなら、せめてうちみが少しでも楽になるようにと湿布を作らせた。レイディ・オリヴィアは、そんなべたべたするものを貼り付けるのは嫌だと言って、湿布を貼りに行ったアビゲイルを部屋から追い出した。それを聞いたエリザベスはとうとう怒ってアビゲイルを従え、レイディ・オリヴィアの部屋へ乗り込んだ。他の使用人たちが扉の外で聞き耳を立てているのは知っていたが、エリザベスはそれも気にせず、珍しく大きな毅然とした声でレイディ・オリヴィアに言った。 「つまり、足を治すつもりはないと……そういうことですか」 エリザベスは手に湿布薬を持ったまま、冷たい目つきでレイディ・オリヴィアを見た。レイディ・オリヴィアはベッドの上で一瞬、ぶるっと震えてみせた。 「おお、恐ろしい嫁だこと。私をにらむとは」 エリザベスはそんなことには全くひるまなかった。 「いいですか、レイディ・オリヴィア。湿布を貼るか、お医者様に診ていただくか、どちらかにしてください。足が痛いのは腫れがひどいからです。使用人に当たるのはやめてください。みんな一生懸命やっているんですから。これ以上のわがままには付き合っていられませんわ。さぁ、どちらにしますか」 レイディ・オリヴィアはしぶしぶアビゲイルに湿布薬を貼らせた。その後、ベッドにもぐりこんでエリザベスの悪口をつぶやいていたが、足の痛みが少し和らいだのか、しばらくすると寝入ってしまった。 その日の夕方、エリザベスはレイディ・オリヴィアにローズマリーの濃い目のお茶を入れた。ローズマリーは万能薬だ。なんにでも効くとは言われてはいるが、目に見えるような効果がすぐには得られるわけではない。本当はローウェルの屋敷から持ってきた東洋のハーブを勧めたかったが、そんな得体の知れないものをレイディ・オリヴィアが素直に飲むとも思えなかった。 「そんなお茶を飲ませてどうしようというの。大して効きもしないのに」 ポットを手にしたアビゲイルの脇にいたエリザベスをレイディ・オリヴィアがにらんだ。 「大して効きもしないけれど、気持ちは落ち着きます。そうすればうちの使用人も平和でいられますわ」 「私がベッドにいるからってずいぶん偉そうな口をきくようになったわね」 憎まれ口をききながらもレイディ・オリヴィアはアビゲイルからカップを受け取った。 「聞き分けよくいらっしゃるならこんなことは申しません」 「人を病人扱いして! シルヴィもひどい女にだまされたものだわ」 ――シルヴィ―― エリザベスはその名前を聞いてふと黙り込んだ。レイディ・オリヴィアの言ったことなどエリザベスにとっては何でもない。しかし、その名前の彼は戻ってくる気などないのかもしれない。パリで誰かと一緒にいる方がいいのかも知れない。それならどうして自分と結婚などしたのか? 一人身で放り出される女貴族などごまんといる。へんな同情心などおこさずに、放っておいてくれれば良かったのに。 一瞬閉じた瞼から涙が落ちそうになった。 エリザベスは突然何も言わずレイディ・オリヴィアの部屋を出た。扉の外では、使用人たちが何食わぬ顔で拭く必要のない窓を拭いていたり、納戸から必要のない食器類を運ぶふりをしていたが、おそらくずっと中を窺っていたのだろう。いきなり部屋を出てきたエリザベスに驚きを隠せなかった。 エリザベスはテラスに出て、自分の好みではないがそれでも緑の香りがいくらかする庭へ降り立った。美しいけれど寂しい庭。きちんと刈り込まれて、一分のすきも無い。庭師のいなくなったその庭は、毎朝ゴードンがそのまねごとをして何とか体裁を保っている。 自分はここでは必要の無い人間だ。 これまでは涙がにじむようなことはあっても、すぐに思い直してもう少しがんばろうと思ってきた。けれど、今日はどうにもできなかった。涙の粒が一つ二つと落ち、止まらなくなる。シルヴィがいなくなってもうひと月は過ぎた。彼は帰ってこないのではないか。自分がここにいる限り。そんな気がしてならない。大きく膨れ上がった疑問が頭を破裂させそうだった。 まるで迷路のような背の高い植え込みの中をエリザベスは泣きながら歩いた。同じところをぐるぐる、涙がおさまるまで長いこと歩き続けた。いつまでも陽の落ちない夏の夜を恨みながら、エリザベスはそれでも全てをなんとか自分の中にしまいこんだ。 エリザベスがそうして泣きながら庭を歩く様子を、二階の廊下の窓からエヴァンズがそっと見ていた。そしてパリへ打つ電報の文面を考え始めた。 |
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