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夜の庭   第二章   


                           -11-




 一週間後、レイディ・オリヴィアはゆっくりではあるが何とか自分で歩けるようになっていた。またバーミンガムで兄の代わりに家の所用を全てこなしているホレイショーが、ようやく母親を迎えに再びロンドンへやってきた。長い間、難しい母親の世話をさせたことをホレイショーは大変申し訳なく思っているらしかった。レイディ・オリヴィアも足がよくなるにつれ、ひどい駄々をこねることもなくなり、ホレイショーが迎えに来てからはさらにおとなしくなった。

「義姉さんには感心させられました。あの難しい母にまともに立ち向かったのはあなただけですよ」
その日の朝、メイフェアの屋敷の食堂で、エリザベスと朝食を取りながらホレイショーが言った。
エリザベスはその誉め言葉にもただ寂しく微笑んだだけだった。レイディ・オリヴィアの怪我は治ってもシルヴィは……この屋敷の主人は戻ってこない。

 以前にもましてエリザベスの沈んだ様子を見ていたホレイショーは、レイディ・オリヴィアをバーミンガムに送り届けたら再びここへ戻ってくると言った。
「ホレイショー。子供じゃないんだし、私は大丈夫よ。それよりお母さまについていて差しあげなくては。結局ロード・シルヴィには会えなかったのだし、きっとお寂しいのでしょう」
「けど義姉さん……」
ホレイショーは食い下がった。少し年は離れているが、時々ロード・シルヴィと同じ表情になる。ホレイショーの方がもっと柔らかい感じだけれど。
「いいえ、本当に。私は大丈夫だから」
エリザベスはなんとか微笑をくずさずにいた。


 そして、その日の午前中に、レイディ・オリヴィアはホレイショーとともにバーミンガムへ戻って行った。馬車に乗り込む前、レイディ・オリヴィアは言った。

「怪しいお茶も少しは効いたのかもしれないわね。おかげでやっとバーミンガムに帰れるわ。シルヴィが戻ったら、すぐにバーミンガムに戻るように言っておいてちょうだい。近所に嫁のお披露目もしないなんて、なんて息子なの。全く」
後ろについていたホレイショーが笑いをこらえて下を向いている。
「お気をつけて」
エリザベスも静かに笑みを返した。


 いろいろな騒動の後、屋敷の中は以前の静けさを取り戻した。エリザベスはたまっていた手紙やメッセージにあらためて目を通して、何通もの返事を書いた。ひととおり必要な仕事が終わると、エリザベスの心の中にはまたぽっかりと大きな穴が口を開けた。


静かな寂しい生活。ロンドンの真中で。




 その夜、エリザベスが一人きりの食事を大きなダイニングテーブルに座って食べていると、玄関ホールの呼び鈴が鳴るのが聞こえた。エヴァンズが出て行って、小さな紙切れを一枚持って慌てた様子で食堂へ戻ってきた。
「奥様。だんな様が帰っていらっしゃいます。今、シェルブールにいらっしゃると」

エリザベスはその電報を受け取り、書かれてある文字を確認した。

「イマ、シェルブールニイル。アス、ユウコクニロンドンニモドル。 シルヴェイナス」

 エリザベスは自分の心臓が痛くなるほど高鳴っているのを感じた。エヴァンズから紙を受け取ったときは立っていたが、「シルヴェイナス」というその名前が最後にあるのを見て、力なく食堂の椅子に座り込んだ。

「奥様? 大丈夫ですか」
エヴァンズが驚いて水差しからコップに水を注いで差し出した。
「大丈夫。大丈夫よ。ちょっとびっくりしただけ……」
そうは言ったものの、エリザベスはしばらく椅子から立ち上がれなかった。シルヴィが戻ってくる。この屋敷に……うれしさと不安がいちどきに頭の中を駆け巡った。

彼は自分のことを覚えているだろうか。結婚してここに自分がいることを覚えているのだろうか。ローウェルの屋敷で見せてくれたような、情熱をもう一度自分に向けてくれるだろうか。


 エリザベスはその夜、なかなか寝つけなかった。レイディ・オリヴィアが戻ってしまったあと、また静かな寂しい生活に戻ると思っていたのに、そうではなくなった。シルヴィが戻ってくる。ずっと心の奥に閉じ込めてきたあの人。やっと普通の結婚生活を送ることができるのだろうか。けれども、心の中にはもう一方で口に出来ない疑念もあった。パリで一緒だったという女性……そういう女性がいるということなのか、それとも仕事上の付き合い? けれど仕事って?

 エリザベスははたと思いあたった。シルヴィが何をしているか自分は全く知らない。ただ、外交官というだけで。国の仕事をしているのだということだけ。

きっと自分が知っていても仕方の無いことなのだ。ならば、何も言うまい。彼がここに帰ってきてくれるだけでいい。彼の姿が一目見られるだけで。今まで以上のことを望んだら、それもかなわなくなるかもしれない。エリザベスは胸がつぶれそうに痛かったが、明日はシルヴィに会えるのだと言うそのことを、まるで呪文のように心に刻みながら眠りについた。



 夜の庭 第二章 - 完 -

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