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夜の庭 第二章 -2- |
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メイフェアの屋敷に戻ったシルヴィは大きな書斎机の椅子に腰掛けて腕を組み、自分が入ってきたドアの方をぼんやり見ていた。エリザベスをかわいそうに思っていた。一人娘だったから、母親が亡くなった後、父親が手放さなかったのだ。あんな美人で聡明な女性が二十歳を過ぎても放っておかれたのはおかしな話だが、父親を見捨てるわけにはいかなかっただろう。父親もエリザベスを拘束した代わりに、生活に困らない程度の財産はうまく彼女に残した。他人が思っているほどエリザベスの財産は少なくない。だから本当は、結婚など誰とでもできたのだ。 それなのに……私が。 サウスハンプトンのローウェルの屋敷でエリザベスを何とか遠乗りに誘い出した時、シルヴィは本当はよからぬ事を考えていた。エリザベスに惹かれてはいたが、それが愛かどうかはわからなかった。というより、自分ではダイアナ以外の女性に心を惹かれることがあるなどと、思ってもみなかった。 エリザベスは普通の女性とはちょっと違う。なにか普通とは違う頭の良さを感じる。それは女性としての賢さ以外でとても漠然としたものだ。あの時自分は、彼女を奪ってしまいたいと考えていた。あれはひと時のヴァカンスだったし、ピアソンが勧めるなら、この話を受けてもいいと思っていた。なら、いつそうなっても同じだ。 しかし、彼女の唇にはじめて触れたとき、そのよからぬ考えは雷に打たれたように砕け散った。彼女のその時の振る舞いはまるで少女だった。愛も語っていないのに、なぜ? 彼女の深いブルーの瞳が自分を責めているように思えたのだ。だから、とてもそれ以上は手が出せなかった。シルヴィは自分がしたことが急に恥ずかしくなってひどい自己嫌悪に陥った。 イースターの夜、自分は本当にエリザベスに愛を感じていた。エリザベスの手にキスをするあの男に激しく嫉妬し、レドナップが彼女を振り回すのには怒りを覚えた。馬車の中で彼女が泣いていたのは何故だ? ダイアナの時は自分はまだ若く、ただ彼女が好きで、誰も反対するものも無く、自分の物になるのは当然のことだった。エリザベスは……もちろん比べるのもおかしい。田舎とはいえ、彼女はあの大きな屋敷を切り盛りしていたりっぱな女性だ。どう考えても自分のことなど必要としているわけがない。だが…… シルヴィは苦笑いした。 あの時、自分はまだ迷っていた。ピアソンが何をたくらんでいるのかは知らないが、エリザベスは自分と結婚したらどうしてもロンドンで生活することになる。あれほど深く自分の作った庭を愛している女性を、こんなごみ溜めのような都会へ連れてくるのがかわいそうだった。友人もいないのに。そんな生活に耐えられるのか。 そんなことを考えていた矢先、レドナップがエリザベスに求婚した。全く安易に先を越されたものだ。 実はレドナップがやってきてすぐ、シルヴィは知り合いの探偵にレドナップの身辺調査を頼んでいた。なんだかどうも変な感じがしたのだ。カミラ・ローウェルはレドナップが去年やってきたと言った。わざわざあんな田舎町に? 探偵からの手紙はシルヴィを驚かせた。――というよりは仰天させたと言う方が正しい。レドナップには相当な借金があるようだった。また、これまでに三回の結婚暦があり、一人目の妻は行方不明、二人目は正式に離婚、三人目は妊娠中に死亡となっていた。気味の悪い話だ。エリザベスは少なからず自分の持参金を持っている。それを狙ってのことか。こんな男とエリザベスが結婚するなど、たとえ自分のところへ来てもらわなくてもありえない。エリザベスもまさかそんなことを知っているとは到底思えなかった。 仕方がないのでシルヴィは、とにかくレドナップと結婚しないようエリザベスに言った。自分と結婚してくれとも言っていないのに、全く勝手な言い草だ。 そしてあの水疱瘡騒ぎが起こった。エリザベスの対応はすばらしかった。シルヴィはすっかりエリザベスに心を奪われてしまっていたが、その時、ダウニング街のオフィスから今すぐ戻ってくるようにと立て続けに電報が入ったのだった。 ウイーンからスエズ運河の管理会社の株を何者かが操作していた。株は乱高下し、イギリス資本のスエズ運河関連の事業が大きく影響を受けていた。それをすぐ調査してほしいというピアソンからの緊急の依頼だった。スエズはフランスとエジプトが共同で管理をしているが、エジプトは債務に苦しんでおり、その後釜をロシアやドイツが狙っている。シルヴィは数日、知り合いの株式仲買人に張り付いて調査を続けた。 株式を操作しているのがロシア資本の海運会社だということを知ったシルヴィは、ピアソンにそれを報告した。ピアソンはすぐに手を打って議会に海外資本のロンドンでの株取得を制限するよう働きかけた。 そんな仕事の合間に、今度は宮殿から呼び出しを受けた。シルヴィがロンドンへ戻ってきたことを耳にしたバーティがすぐ出仕しろと言ってきたのだ。アルバート・エドワード・ウェッティン。ケンジントン宮殿にいる皇太子である。 宮殿に赴いたシルヴィはバーティから不穏な事を言い渡された。どこから聞きつけたのか知らないが、サウスハンプトンのレイディ・エリザベス・ローウェルは大変な美人で、シルヴィが口説けなくてもたもたしている。もし本当に失敗したのなら、エリザベスを自分のところへ連れてくるが良いと。バーティには愛人がたくさんおり、その一人に加えても良いと言うのだ。 これはひどい嫌がらせだとシルヴィは思った。好人物ではあるが、このやんちゃの過ぎる皇太子に? あの純粋な女性が皇太子の愛人? それぐらいならエリザベスは他の誰でもなく、自分と結婚するべきだ。もしレドナップの求婚をまだ受けていなければの話だが。 そうそう悩む時間もなく、シルヴィはバーティにエリザベスがまだ婚約していなければ自分と結婚すると宣言した。バーティはただにやりと笑っただけだった。 面白くない……全く面白くない! シルヴィはしてやられた気分だった。これはやはり仕組まれたのではないか? |
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