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夜の庭   第二章   


                           -3-




 ロンドンでレドナップを偶然見かけたのは、仕事に戻ったシルヴィが、ロシアの海運会社に出入りする人間を追いかけてきたその時だった。その建物の隣は宿屋で、ロシアからきた船の船員たちが常宿にしている。一階のレストランに親しげに女性と入っていったのは紛れもなくレドナップであった。

 仕事の手前、表立って動くのはどうかと一瞬迷ったが、シルヴィはレドナップを話をしなければと思った。あの水疱瘡騒ぎの時、レドナップがあからさまに嫌な顔をしており、天然痘を恐れてその場からそそくさと逃げ出したのは知っていた。けれども、彼は自分の前でエリザベスに求婚したのだ。一体それはどうなったのか? バーティに宣言はしたものの、もしかしたらエリザベスのことは時期を逃してしまったかもしれないと考えていた。しかし……

「こんなところで君に会おうとは。ミスター・レドナップ」

いきなり声をかけられたレドナップは慌てていた。

「グロブナー卿!」

「サウスハンプトンからいなくなったと思ったら、女性と一緒とは……」
シルヴィが言いかけたのを遮るように、レドナップはシルヴィの方に近づいて小声で言った。「別のところで……」
シルヴィは勝ちを確信した。「私はかまわないが」

 
 レドナップは女性を窓際の席で待っておくように言い、自分はシルヴィと一緒に女性からは見えないレストランのカウンターへ歩いた。

 明らかにレドナップは狼狽していた。おまけに窓際の席に待たせている女性には見覚えがある。バロネス・サリー・ジェフリーズ。サー・ジェフリーズの未亡人だ。亡くなった夫の方をシルヴィは知っていた。自分が七、八歳の時には、四十を過ぎていただろうか。そしてその夫人は確か、昔は移動劇団の女優をしていて、サー・ジェフリーズの遺産を湯水のように使っていると聞いている。若作りをしてはいるが、今、齢五十は超えているだろう。


「ミスター・レドナップ」
シルヴィは敢えてレドナップのことを艦長とは呼ばなかった。
「あの女性は?」
レドナップはまた一瞬ひるんだように見えたが、小さく息を吐いて言った。
「私のフィアンセだ。昨日、婚約した」

今度はシルヴィが驚く番だった。
「婚約!? 彼女と? ではエリザベスとの話はどうなったのだ」

「あ、あ、あなたにそんなことを答える義務はない」
レドナップはしどろもどろだ。そんなに金に困っていたのか。口には出さなかったが、エリザベスが相手でなくて良かったとシルヴィは内心ほっとしていた。

「では、あの窓際に座っている女性に聞いてみようか」
「や、やめろ。あなたはいつもそうやって……」
「どうしてそんなにおどおどしているのだ。聞かれたことに素直に答えればいいのだ。それとも締め上げられたいのか」
 
 シルヴィは自分の長い手をレドナップの肩にかけた。レドナップは軍人にしては華奢で、一体どうやって海尉艦長にまでなったのかと思わせるほどだ。
「エリザベスとはどうなったのかと聞いているのだ」
シルヴィの腕がレドナップの首に巻きつけられる。もう片方の手の拳でみぞおちをこづくと、レドナップはうっと言って前かがみになった。
「さぁ、どうしたのだ」

レドナップはくぐもった咳をした。そして搾り出すような声で言った。
「……ど、どうもしていない。あのままだ……」
「あのままとはどういうことだ。エリザベスに求婚して、それからどうしたのだ」
「だから……」
シルヴィの拳がまたレドナップをこづいた。
「そのままだ。何もしていない。あれから……」

「つまり、天然痘を恐れてそのまま逃げてきたということか。サウスハンプトンに戻ってもいないのか」
「ああ、もどっていない」

シルヴィはその答えを聞いてかっとなり、もう一度レドナップのみぞおちに拳を入れた。レドナップは痛みでごほごほ咳をした。

「なんと情けない男だな。ということはエリザベスはそのままほったらかしにされているのか」
「何とでも言うがいい。天然痘の恐ろしさを知らないくせに……」
レドナップは悔しげにそう言った。

「君の行状をあの御婦人にばらしても良いが、これからいうことを手紙にしてエリザベスに出すなら、考え直さなくもない」



 こういう脅しは得意だった。シルヴィは自分が口述した手紙をレドナップに書かせ、それを預かって自分で投函した。そしてしばらく後、仕事もそこそこにまたサウスハンプトンへ向かい、エリザベスに求婚したのだった。



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