バナー


夜の庭   第二章   


                           -7-




 水疱瘡騒ぎがようやく収まったメイフェアのグロブナー屋敷で、エリザベスは今夜、義理の母と行くオペラに着ていくガウンに頭を悩ませていた。父の喪があけてもうだいぶ経つが、シルヴィに作ってもらった舞踏会用のドレスを着ていく気には到底なれなかった。オペラの後に、レイディ・オリヴィアの古い友人である、フィッツハーバート伯のところへ寄るとも言われている。やはり深い紺色のシルクを着ていこう。エリザベスがそう言うと、ベネは渋い顔をした。決して派手とはいえないそのドレスは、音楽会でも舞踏会でも目立たないこと間違いなく、アクセサリをつけて頭をきちんとしなければメイドと間違われかねない代物だった。義理の母親との気の進まない外出にはもってこいかもしれないが。

 玄関ホールで義理の母を待っていたエリザベスを一目見るなり、レイディ・オリヴィアはため息をついた。
「なんて地味な娘だろうね。元が悪いわけでもないのに。ダイアナとは正反対だわ」
その言葉はエリザベスの心臓を刺すようだった。当然のことだ。口にすることはないが誰もが心の中でダイアナと自分を比べている。あのロンドンきっての伊達男の妻がこの地味な女。レイディ・オリヴィアは思ったことを口にしたまでた。けれど、自分の父は亡くなってまだ一年なのだから、言い訳が立たないわけではない。夫を亡くして何年も経つ女王陛下でさえそうなのだから。しかしエリザベスはレイディ・オリヴィアの言うことに何も言わず、馬車に乗った。

 ハー・マジェスティ劇場にはグロブナー家が年間で借り切っている桟敷席がある。オリヴィアは昔、まだ夫がいたときに何度もこの劇場へ足を運んでいた。立派なホールの入り口をくぐり、知り合い会釈しながらレイディ・オリヴィアは懐かしい赤じゅうたんを進んでいく。彼女が来たことがまるでさざなみのように劇場の中を伝わっていくのがエリザベスには良くわかった。オリヴィアの夫であった先代のロード・グロブナーはどれほど影響力の大きい人間だったのだろう。エリザベスはオリヴィアの数歩後ろを歩きながら人々の様子を窺い見た。

「レイディ・オリヴィア。なんてめずらしい」
手の込んだ刺繍の入った帽子をつけ、上等のシルクのレースを上品にあしらったガウンの年配の婦人がオリヴィアをみつけてそばにやってきた。ガウンと同じ色の扇子で自分をあおぐ気取った様子に、エリザベスは何か冷たいものを感じた。
「グールド伯爵夫人。お久しぶり」
オリヴィアはファーストネームを呼ばなかったが、静かに礼を返した。エリザベスもそれにならった。
「ロンドンへ来ていらっしゃるなんて聞いていませんでしたわ。あら? そちらはもしかして噂のロード・シルヴィの新しい奥様?」
新しい奥様。確かに自分は新しい奥様だ。けれど、噂の? 何が噂になっているの?
「ええ。エリザベスです。エリザベス。こちらはグールド伯爵夫人」

はじめまして、とエリザベスは正式な礼をし、グールド伯爵夫人も同じように礼を返した。
「エリザベス、とおよびしても良いかしら? いつロンドンへ? ご主人と一緒にパリにいらっしゃるのかと思っていましたわ」
「先月の終わりです」

パリ――夫はフランスにいるのか。エリザベスはこのことを他人に訊ねるようなことはしなかった。

頭のてっぺんからつま先まで値踏みするような視線。エリザベスは自分が緊張しているのがわかった。廊下にいる人々の視線もいっせいにこちらを向いていたからだ。
「そう。ねぇ、オリヴィア。エリザベスのガウンはこちらで作らせたものではないの? ロード・シルヴィがこんな地味なものをお勧めになるなんて。この方、思ったほど陽に焼けていらっしゃらないのね。サウスハンプトンなんて田舎からいらっしゃったってお聞きしてたから。実はこの間、そちらのメイフェアのお屋敷にいたっていう庭師がうちの執事の紹介で雇って欲しいって来られましたの。新しい奥様は庭を畑のようにしたいので、自分とは趣味が合わないと言って。だからどんなに健康的な運動をされてきたのかお話をお聞きしようと思っていましたのよ。最近では若い女性も運動するべきだと政府も言っていますしね」

 エリザベスは胸を刺されたような気がした。話しているのはグールド伯爵夫人だけだったが、廊下にいる全ての人間が自分の方を向いてひそひそ話をしている。自分だけが辱められるのは別にかまわない。今後、話をしなければそれでよいのだ。けれど、義理の母の前でこんな言われ方をするなんて……ロード・シルヴィはこのことをどう思うだろう。

しかし、オリヴィアは質問には答えずに言った。
「あなたの好きなファッションプレートはグロウヴォーグかしら? アグネス。その帽子とドレスのセット、バーミンガムでも人気があったのよ。同じものを三度は見たわ」

アグネス・グールドは何やらつぶやいてエリザベスをにらみつけ、そそくさとその場を去って言った。

「いけ好かない女性だけれど、アグネスは昔からの知り合いです。あまりおつむのいい方ではないので、相手にしないのが一番」
オリヴィアはエリザベスにそう言って、案内の導くままグロブナー家の借りている桟敷席へ入っていった。


 オペラはすばらしかった。これまでに見たどの椿姫よりも良かった。エリザベスはサウスハンプトンのような田舎に住んでいたにしては、芝居もオペラも良く見ているが、さすがにロンドンの真ん中で歌っているプリマドンナはすばらしい。ロード・シルヴィはこんな音楽会に飽きるほど来ているだろう。エリザベスはロンドンの目新しいことで心が躍る反面、シルヴィも戻ってこない上に、田舎者と言われた自分がこのロンドンで本当にやっていけるのか、またしても不安でいっぱいになった。


 目次へ