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夜の庭   第二章   


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 オペラがはねた後、オリヴィアはエリザベスを伴って劇場を出た。その足でオリヴィアの知り合いのフィッツハーバート伯の屋敷へ向かった。フィッツハーバート家はオリヴィアの姉の嫁ぎ先だったが、オリヴィアの姉は既に亡くなっていて、オリヴィアの古い友人だったイサベラがフィッツハーバート伯の後妻となった。そんな話を馬車の中で聞きながら、エリザベスはまた誰か意地悪な人間が出てこなければいいがと不安を募らせていた。

「あなたブリッジは?」
馬車を降りるなりオリヴィアが訊ねた。
「たしなむ程度には」
本当はエリザベスはブリッジは得意だった。トリックの終わったカードから相手の持ち札が何か想像するのが面白いのだが、決してゲームにのめりこむようなことはない。父が生きている間は、他人とゲームをすることを許されていなかったからである。
「今夜はフィッツハーバートの甥がきているかも知れないわ。多分、カードに誘われるでしょう。けど、できればお断りしたほうがいいわね」

 義母からどうしてそんな忠告があったのか、フィッツハーバート伯のサロンで、オリヴィアの後ろにずっとついてまわっていたエリザベスはすぐに理解した。フィッツハーバートの甥、テディアス・フィッツハーバートはシルヴィがロンドンにいない間の伊達者代表らしかったが、カードでカモになる人間を探していた。テディに誘われれば大抵の女性はカードテーブルにつく。既婚者だろうが年配だろうがおかまいなしだ。そして、相手にちょっと懐が痛む程度の負け方をさせる。エリザベスたちが誘われる前に、既に二組の若い女性たちが彼らにすっかり負けてしまっているのを、エリザベスは気づかれないように観察していた。

「やぁ、これは。珍しい方がいらっしゃる」
カードテーブルから一旦引き上げて新しいカモを探していたテディ・フィッツハーバートがオリヴィアの傍へやってきた。
「お久しぶりです。レイディ・オリヴィア。伯父は今夜あなたがいらっしゃるなんて一言も言ってませんでしたよ」
テディがオリヴィアの手を取る。黒く波打った髪が美しい。
「そちらの美しい方が、ロード・シルヴィの奥方ですか?」
流れるように自分の方を見たテディ・フィッツハーバートに、エリザベスは目を伏せ、小さく足を折て挨拶した。

「はじめまして」
カードに誘おうとしているテディを見越してその場を立ち去ろうとしたオリヴィアをフィッツハーバートが一歩前へ踏み出して制した。
「レイディ・オリヴィア。僕はポーツマスに友人がいて、お噂をかねがね聞いていたのですよ。何しろ、あのロード・シルヴィを射止めた女性ですからね。非常に頭のいい方だと伺っています」
テディ・フィッツハーバートはエリザベスの方を見て『そうでしょう?』と言わんばかりににやりと笑った。
「さぁ、それはどうかしら。あなたのカードの相手にはならないと思うわね」
「それはやってみなくてはわかりません。それとも、ロード・シルヴィが選ばれた方がブリッジの一回も出来ないと? 大英帝国の表に立つ外交官の奥方が?」
レイディ・オリヴィアは若いフィッツハーバートをじろりとにらんだが、大きくため息をついた。
「あなたには負けましたよ。やれやれ。またおこずかいをせびられるのね。ハンフリーはどこ? あなたのお友達には遠慮していただきますよ」
さっきまで一緒にカードテーブルについていたテディの友人は、テディの伯父、ハンフリー・フィッツハーバート伯にとってかわった。

 勝負は三回と決められた。十三トリックを三回。長い夜になりそうだ。一回目はお互いのレベルがわからないので競り無しということになった。レイディ・オリヴィアはもちろんエリザベスと組んだが、トリックが進むにつれ、エリザベスが控えめながらゲームの勘所をきちんとつかんでおり、決して悪いパートナーではないことを感じていた。

 一回目の勝負はレイディ・オリヴィアとエリザベスの組が勝った。さっきの女性たちと同じパターン。テディ・フィッツハーバートは初めは絶対に女性に勝たせるのだ。そして次にほんの少しの差をつけて勝つか負けるかして、心をくすぐり、そうして最後に大きく勝ちに出る。おおよそ初級者などはなからフィッツハーバートの相手ではない。ただの戯れか、あるいは金を巻き上げるためのカモでしかない。二回目の勝負はフィッツハーバート組がかろうじて勝った。その勝負が終わりかけのトリックで、エリザベスは自分たちのカードテーブルのすぐ先に、テディ・フィッツハーバートの友人らしき男たちがずっとそこを離れずにいるのに気づいた。テディは彼らの方を向いてはいたが、たまに視線を上げるくらいでそれほど気にしている様子はない……と思ったのだが、テディが落とした視線の先には彼らの足があり、テディと同じタイミングで視線を落としたエリザベスには、足がこつこつと床を小さく叩いているのが目に入った。

ゲームに集中しなければ……

エリザベスはテーブルについているプレイヤーに遅れをとらないよう、知らないふりを続けたが、やはりどうしても気になる。一トリック終わるごとに彼らの足が動くからだ。

男たちからはレイディ・オリヴィアのカードが見えている?

最後の勝負に入って何度目かのトリックで、エリザベスは業を煮やしてゲームを中断した。

「すみません。こんな途中で……私、少し寒気がしますの。あちらの部屋から風が足元に来るようですわ。できればそのカーテンを引いていただくか、ついたてを広げていただけないでしょうか」
皆の視線が一斉にエリザベスの方を向いた。エリザベスは一瞬、自分がそんなことを言ったことを後悔した。
「確かに少し足元が寒いようだ。クリスティン、そこのついたてを広げてくれ。それから、レイディ・オリヴィアとエリザベスにひざ掛けを」
ハンフリー・フィッツハーバートがメイドに言いつけた。テディは少し驚いた様子でエリザベスを見つめていたが、何事もなかったかのように勝負を続けた。

 結局、勝負はレイディ・オリヴィアの組が勝った。エリザベスにはそうして良かったのかどうか疑問が残った。レイディ・オリヴィアはテディがいかさまのようなことをしていたのを知っていて黙っていたのではないかという気がしてきたからだ。しかし今更取り返しはつかない。たかがゲーム。あまり深く考えるのはやめよう。エリザベスはゲームが終わった後、レイディ・オリヴィアが古い友人たちと話をするのを壁際に座って眺めていたが、さっきとは逆に今度は閉め切った部屋がむっとしてきていたので部屋からテラスの方へ移った。

 フィッツハーバート邸のテラスの先は小さな庭になっていて、植わっている草木はよく手入れがされていた。ただし、それはこの大都会での話で、テラスから続く生垣もその先にある薔薇のアーチも、等間隔できれいにそろえられたアイリスも、まるで庭師のスケッチブックか、子供の絵本の挿絵からそのまま写したようだった。ロンドンではどこもかしこもこんな庭ばかりだ。確かに美しい。手入れも行き届いている。けれど……


エリザベスは思わず、サウスハンプトンのローウェルの庭を思い出していた。

 ローウェルの屋敷の今の庭の原型を作ったのは曾祖母だったらしいが、エリザベスはその曾祖母を知らない。母が手入れをしていた時期はほんの短い間で、その母もエリザベスが物心ついたころから体が弱く、思ったようには出来なかったのだ。エリザベスは自分が遊ぶ広大な庭が好きで、遊んでいるうちに屋敷の庭師たちと仲良くなり、その仕事を覚えた。最初は曾祖母の植えたという花々を何とか枯れさせないようにするだけで精一杯だったが、だんだんやり方がわかってきて、荒れていたところは何年も何年もかかって開墾を続けた。森で植わっていた植物や、鳥の糞から思いがけず生え始めた樹木を大切に育て、自分で作ったと胸を張って言える庭。それが自分の物でなくなるのは一瞬だった。私はその代わりにずっと思いつづけてきたシルヴィのところへ来た。それなのに……

 メイフェアのグロブナー邸には狭い庭しかない。ロンドンの真中なのだからそれは当然のことだ。四方を隣の建物に囲まれたまるで箱庭のような庭は、それでもきちんと庭の体裁をとっていた。確かに庭ではあった。他人に言わせれば。

庭の中心に噴水はあったし、人が歩くところには芝が植えられ、その周りをぐるりと背の高い垣根が整然と埋めている。噴水に至るまでには所々にベンチやあずまやが配置され、その周辺には小さな植え込みがいくつかはあった。けれどそれは本当に定規で測られたように正確なのだ。だいたい、植木のあるところに土が見えない。全て白い砂かきれいな丸い石で地面が覆われている。この庭を造った人間は土が嫌いだったのだろうか。エリザベスはその冷たい感じのする庭の端に自分の地面を持とうとしたが、それも叶わなかった。

月明かりだけのテラスで、エリザベスは瞳を閉じた。

私には何もない。庭もないし、シルヴィもいない。一体自分はどうしてこんなところへ来てしまったのだろう?


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