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夜の庭   第三章   


                           -10-




 それを聞いたエリザベスは、今さっきあったことが嘘だったような気がした。また行ってしまうの?

シルヴィは食堂の方へ戻ってきてその大きな身体でエリザベスを抱きしめた。
「出かけなければならなくなった。すまない……」
シルヴィの固い胸板が、自分の頬にあたっている。こんな風に男の人は女性を抱きしめるのだ。暖かくて太い腕で。
「帰ってきたら、続きを……」
シルヴィが耳元でささやいて額にキスした。エリザベスは体中が熱くなってどうにかなりそうだった。彼はすぐに帰ってきてくれるだろうか。本当に自分のことを忘れずにいてくれるだろうか。ああ、期待しすぎてはいけない。けど……
「――いつ、帰っていらっしゃいますか?」
エリザベスは恐る恐る訊ねた。
「今夜はわからない。明日の朝か……先に寝ていなさい」
シルヴィはエリザベスの唇にもう一度キスして、エヴァンズと自分の部屋へ戻っていった。


 さっきのキスは――あれは彼が愛している人にするキスなのだろうか? まるで雷に打たれるかのような衝撃……エリザベスは大きく息をついて胸を抑えた。
ああ、胸が痛い。彼は私を愛してくれるというの? もしかしたら、サウスハンプトンのあの泉に出かけたときのように戻ってくれると。

 エリザベスは自分が再び叶わない夢の世界に溺れるのが怖かった。彼に初めて会った日から、ずっと夢を見つづけてきた。それは長い間ずっと夢でしかなかった。叶わない夢ではあるが、たとえ目が覚めても幸せな夢だったと、その余韻を味わうことさえ出来るものだった。それがついふた月前、本当の彼が現われて、それが本当になると宣言した。確かに、生活は一変し、今まで夢にしか現われなかった彼の姿を、本当にそばで見られることになったのだ。

けれど……ここに出てきてからは、心を惑わすようなことしか起こらなかった。期待していた全てが嘘だったかのように。


夢でない彼は存在しないか、あるいは存在を否定するかのように自分を無視し続けた。最近では、そんなことを期待する方が馬鹿だったのかもしれないと思い始めていた。

――けど、彼は私に謝ったわ。今まで放っておいて悪かったと。

これを信じてもいいのだろうか。本当に彼は帰ってきてくれるのだろうか。これは夢でなくなるのだろうか。エリザベスはまた眠れない夜を過ごした。



 翌日の夕方、シルヴィは疲れた顔で屋敷に戻ってきた。エリザベスは玄関ホールで迎えたが、シルヴィはまたすぐに出かけると言った。
その時のエリザベスの落胆はもはや隠せるものではなかった。やはり、また行ってしまう。

「エリザベス。頼むから、そんなに悲しい顔をしないでくれ。今度は出来る限り早く戻ってくる」
「――どちらへ?」
「フランスだ」
フランス……エリザベスの頭の中にちらと良くないことがよぎった。
「いつまでですか。またひと月も先に戻ってこられるの?」
エリザベスはシルヴィがいるなら、サウスハンプトンに戻るのはやめようと思っていた。けれど、もしまた長く待つのなら……同じことを何度も訊くのは嫌だったが、今度こそ訊かずにはいられない。シルヴィは今度は出来る限り早くと言ったが、こんな風に捨ておかれたようにいるのは嫌だった。このロンドンの屋敷で、他人の噂の種になるのを恐れて外にも出ず、鬱々として過ごすのは。
「わからない。一週間先か、二週間先か……でもひと月はないと思う」
シルヴィのブルーグレーの瞳が寂しげに美しく光った。この人はいつもこんな風に微笑む。そこに嘘は無いかのように。ではもう一度だけ、私は貴方を信じることにするわ。

「そうですか……私、一度サウスハンプトンに戻ろうと思うのですが、いらっしゃらない間に戻ってもいいですか?」
少しためらいながらエリザベスは訊ねた。彼に何かを頼むのなら、このタイミングでなければならなかった。
「戻るってどこへ? 君のいとこの家か」
「ええ。叔母が一度戻ってきたらと薦めてくれているんです」

 シルヴィはこの話を聞いてしばらく考えるようだったが、結局一週間だけということで許可をした。本当はエリザベスを屋敷から出したくはなかったが、自分が出かけてばかりいる後ろめたさも手伝って、そうせざるをえなかった。ただし、サウスハンプトンにはコリンを一緒に連れて行くという条件つきだ。コリンは十二歳になったばかりだが、この屋敷ではもういっぱし御者の代わりができるほどになっている。これまでもキューへ何度もお供させたと聞いている。ベネは先にサウスハンプトンへ戻してしまったようだし、まさか従者なしでサウスハンプトンまで帰らせるわけには行かない。エヴァンズには家にいてもらわねばならないし、屋敷の中の男手として最も役に立っているゴードンはなおさらだった。サウスハンプトンに行かせるだけなら、コリンでいいだろうとシルヴィは考えた。


 その後、夜通し書斎で何かをやっていたシルヴィは翌日の朝早く出かけることになった。同じように早くに起きだしたエリザベスと玄関ホールで熱いキスをかわし、名残惜しそうに馬車に乗り込んだ。後輪が白い埃を巻き上げていくのを最後まで見送ったエリザベスは、急に寂しくなってがっかりと肩を落とした。ひと月にはならないだろうとシルヴィは言ったけれど、本当のところはわからない。いえ、たとえ少しぐらい長くなっても無事に帰ってきてもらえればそれでいい。ケイティが言ったことが本当なのだとしたら、シルヴィのやっている仕事はきっととても危ないことだ。
そして、エリザベスは以前自分が描きとめたシルヴィを描いたデッサン帳を持ち出し、胸に抱きしめた。



 シルヴィが行ってしまった後、朝食の前にエヴァンズが手紙を持ってエリザベスのところへやってきた。ジョンからだ。いつもは叔母のエレンが手紙をくれるのに、わざわざジョンから? エリザベスはエヴァンズが手紙と一緒に持ってきたペーパーナイフで封を切った。


 僕のかわいいいとこ殿

 元気にしていますか。もうすぐ帰ってくると聞きました。僕も母も子供たちもとても楽しみにしています。実は、お願いがあります。この間、ローウェルホールの図書室を整理させていたら、ボードレール全集の三巻目が無くなっていることがわかりました。伯父さんがロンドンで借りていた部屋に持っていってしまったのではと思うのですが、時間のあるときに探しておいてもらえませんか。今度帰ってくる時に間に合わなくても構いません。

                                             ジョン


 ジョンらしい手紙だ。要件しか書いていない。ローウェルホールではもう本格的に片付けをはじめたらしい。自分は結局、あの図書室からは何も持ってこなかったけれど。一体どのくらいの本が売りに出されるのだろう。エリザベスはやはり自分が思っていたとおりになりそうだと思った。父はあれでかなりの初版本を蒐集していた。とても残念なことだけれど、自分が口出しできることではない。

その手紙に書かれてあった部屋はストランドにあり、部屋の契約は、いずれジョンがこちらに出てくるようになったら使うと言うことでそのままにしてあった。遺産を相続したジョンがそのまま借り続けている部屋ではあったが、ジョンがこちらへ来ない限りは誰も使わない。ジョンはカミラにはそのことを内緒にし、ロンドンにいる間はエリザベスの好きなように使ってもいいと言って、エリザベスに鍵を預けていた。

サウスハンプトンへは今日、出発する予定だから、帰ってきてから探しに行こう。エリザベスはいつも持ちあるいている小さなポーチの底に、リボンのついたその鍵があるのをあらためて確認した。



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