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夜の庭   第三章   


                           -11-



 
 ドーヴァーからフランスへ渡るため、シルヴィはヴィクトリアへ向かった。ヴィクトリア駅のプラットホームでサー・ヘンリーと待ち合わせしている。サー・ヘンリーは既に列車の前で待っており、シルヴィが手を上げるとそれに気づいて、同じように手を上げた。ちょうどそこへ、どこかのお仕着せを着たメッセンジャーが息を切らしてやってきた。

「今度は何だ?」
差し出されたメッセージをシルヴィが受け取った。

 古書店組合から連絡あり。Q'sINNに戻られたし。 ジョン・ローン

二人は顔を見合わせた。ロード・ジョンとアーガイル公は組織の一員ではあるが、その身分の高さ故に、表立って動くことはできず、実際の仕事に大きく関わることはない。しかし、シルヴィとサー・ヘンリーが二人ともロンドンを不在にする時はいつも留守番をやってくれている。
「どうします?」
「ロード・ジョンは私たちがどうしてフランスへ行くか知っている。わざわざ戻れと言うのは、余程のことだろう」
シルヴィとヘンリーは結局、列車に乗るのをやめ、辻馬車を拾って、リージェント・ストリートにある組織の会合場所へ戻った。

 そこはキューズ・インという宿屋で、この組織のために、枢密院が用意したものだ。奥の大きな一部屋が事務所として、また彼らが活動のために着替えをしたり泊まったりという、ちょっとしたことのために使える部屋が二部屋ある。何しろ一応宿の体裁を取っているので、食事も酒も言えば出てくるし、この宿の持ち主が枢密院のバート卿であることもあり、秘密は完全に守られていた。

 二人がキューズ・インの事務所へ戻ると、ロード・ジョンが中で出迎えた。
「やぁ、間に合って良かった。どうしようかと迷ったんだが、ついさっき、古書店組合から連絡が入った。例の十字架と蛇の絵が入った筒は、コヴェント・ガーデンのバルフォア書店の店主が買って行ったそうだ。そこの店主の知り合いから、古書店組合に連絡があった」

「バルフォア書店……コヴェント・ガーデンのあの大きな本屋か。組合から連絡は入っているだろうに、自分から名乗りでなかったと言うことは、何か後ろめたいことがあるということか」
シルヴィは出された熱いお茶を一口飲んで言った。
「メアリー・ラロルシュに確認してもらった方がいいのでは? 彼女に来てもらうなら君から連絡してもらわねばならないだろう?」
繊細な指がミルクポットをつまんで、カップに注ぎ足す。スプーンは使わず、そのまま混ぜないでロード・ジョンはカップを口に持っていった。
「場合によっては、フランス行きを貴方に任せても良いだろうか?」
外交官ではないが、ロード・ジョンは女王陛下の娘を妻にもらったことで抜群の知名度だったし、ヨーロッパの地方の城主には特に意味のある身分の高さであることは間違いない。
ロード・ジョンはちょっと驚いた様子で、カップを置いて言った。
「もちろん。私で間に合うのなら」



 その日、エリザベスはコリンを御者にしてサウスハンプトンへ向けて屋敷を出た。コリンは祖父のエヴァンズに似て余計なことはしゃべらない。非常に顔立ちの美しい少年である。この屋敷にはきれいな顔の男性が集まるようだ。コリンの父親のゴードンは、屋敷でエヴァンズがやっている以外の裏をすべて取り仕切っている。厩番から屋敷の中の男手の必要なところはすべてだ。コリンの母親はコリンを産んで亡くなったと聞いているが、コリンは育ちが良く素直な少年だった。父親と祖父にきちんとしつけられている。エリザベスはコリンと一緒にいると自分がまるで姉になったような気がしてしまうのだった。

サウスハンプトンへ戻る前に、エリザベスは先日、写生会で、バウ氏に教えてもらったコベントガーデンの画材屋に立ち寄った。自分が今持っているのよりずっと繊細なペイントナイフと絵の具を手に入れておきたかったのだ。それはロンドンでしか手に入らない。サウスハンプトンで使えるなら持って行きたかった。エリザベスは画材屋の中にコリンもつれて入り、店の中でさまざまに並べられた筆やデッサン帳、絵の具をしばらく二人で眺めて楽しんだ。そして必要な画材をあれこれ選び、コリンにも退屈しないように小さなスケッチブックと鉛筆を買い与えることにした。

 ふと、ガラスの窓越しに通りの向こうに視線をやったその時だった。視線の先に見えた人影にエリザベスは凍りついた。向かいはかなり大きな古書店で、そこに入っていく一組の男女がいる。

女性は間違いなく、アーガイル公の屋敷で見たメアリー・ラロルシュ。そして、もう一人の男性は紛れもなく自分の夫、ロード・シルヴィ……!

どうして……どうしてシルヴィが……昨日、フランスへ行くといっていたのは嘘だったの?

エリザベスは呆然として、自分が手に持っていたペイントナイフを取り落とした。


「マダム?」

コリンがすぐに気づいてそれを拾った。
「マダム? どうされたのですか?」
エリザベスはシルヴィのことをコリンに知られてはいけないと思い、あわててコリンのほうへ向き直った。
「あ、ごめんなさい、ちょっと……ぼんやりしていたわ……ああ…これいただくわ」
エリザベスは油彩の大きなキャンバスが安く売られているのを見つけて、半分上の空でペイントナイフと絵の具とともに店の主人にお金を払った。シルヴィの方を向かないようにしていたが、どうしても気になる。エリザベスはコリンを何とか屋敷に戻らせてシルヴィの跡を追いたかった。

「ねぇ、コリン。サウスハンプトンに持って帰るにはちょっと荷物が多すぎるわ。あなた馬車で、一旦屋敷に戻ってこれをおいてきてくれないかしら。私はこの店で少し待たせていただくから」
コリンはちょっと不思議そうな顔をしたが、「はい、マダム」と言って、すぐに買った大きなキャンバスを店の前で馬車の中に載せて出て行った。コリンがキャンバスを運んでいる間に、シルヴィが出てこないかとエリザベスはひやひやしたが、彼らは向かいの店の中でなにやら話し込んでいて、出てくる気配も無ければ、こちらに気づく様子もない。

 コリンが行ってしまった後、エリザベスは画材屋の主人が用意してくれた椅子に座って、カーテンの陰に隠れるように彼らを見ていた。書店の主人としばらく話した後、彼らは店を出て、おそらくマダム・ラロルシュのであろう豪勢な馬車に乗り込んだ。向かいに止めてあった、さっきコリンが乗って行ったグロブナー家の馬車に彼らが気づかなかったのは幸いだった。エリザベスは心臓がどきどきするのを抑えることができず、画材屋の主人に礼を言って、自分も外に飛び出した。そして通りの辻馬車を拾って彼らの跡をつけさせた。



「あの店主、どう考えてもおかしいわ」
馬車に乗り込みながら、メアリー・ラロルシュ言った。
「やはりそう思うか。確かにどうも挙動が変だった。君がそのペンダントを見せた途端、顔色が変わった」
メアリー・ラロルシュの手の中にあるペンダントトップには、ラロルシュの家の紋章である十字架と蛇が刻まれている。
「あの店に来たのよ。きっと。でも言い出せないわけがある」
「そうだな。しばらくあの店を見張らせておく。もし、自分たちが出した金額に興味があるなら、きっと接触してくるさ。君も身辺をよく気をつけたまえ」
「わかってます。ああ、やっとすべてが動き出したわ……」
メアリーは自分の胸を抑えて目を伏せた。あれから五年――本当に長かった。




 馬車が向かっていたのはハイドパークの西の方だった。その近くまで来て、エリザベスは本当に落胆した。そこに何があるか知っている。メアリー・ラロルシュの仮住まいだ。

 馬車が敷地の中に入って行ったのを確認して、エリザベスは自分が乗っていた辻馬車をストランドの方へ向かわせた。コリンが画材屋に戻ってきて大騒ぎになるだろうとは思ったが、このままサウスハンプトンへ戻りたくなかった。

こんなこと、誰にも話せはしない……

父がロンドンにいるときに借りていた部屋に行くつもりだった。ただ一人になりたかった。屋敷へも戻れない。こんな気持ちでは。

子供じみている? エリザベスは自問した。けれど、シルヴィが嘘をついて屋敷をあけるのなら、私があの家に閉じこもっていなければならない理由はない。彼はやはり望まない結婚をしたのだ。昨夜、彼にキスされたとき、これから本当の生活が始まるのだと思った。けれど、それはやっぱり嘘だった。昨日、やってきた使いはピアソンからではない。多分、メアリー・ラロルシュだったのだ。

ただ逆らうことのできない結婚だった。彼にとっては。田舎ものの自分をだますことなど簡単だったに違いない。たとえ少しぐらい疑いをもたれても、キス一つでごまかせるのだから。自分にとっては昔の夢に戻るようなできことだったけれど。

 エリザベスは辻馬車を降りるまでは何とかこらえていたが、目指す建物の中に入ると我慢ができなくなった。いつも持ち歩いている小さなポーチから、三階にある部屋の鍵を取り出して開けた時には、頬から涙がぼとぼと落ちていた。



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