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夜の庭 第三章 -12- |
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メアリー・ラロルシュをハイドパークの屋敷へ送っていった後、シルヴィはまたリージェント・ストリートの組織の事務所へ戻った。そこでは、サー・ヘンリーが新しい情報をもってシルヴィを待ち構えていた。 「あの、ペルピニャンから来たという男、昨日、チェルシーの古書店に現れたようです。さっき、組合からメッセージが届きました」 「チェルシー?」 「ええ。例の地図のフェアが行われた場所なんです。それにもっとすごい情報が……そいつはロンドンでの連絡先を置いていきました」 サー・ヘンリーが古書店組合からのメッセージをシルヴィに渡した。 十字架と蛇の筒に入った地図を探している男。昨日、チェルシーのドリー・セカンドハンド・ブックショップに現れたとのこと。他の店にも現れた模様。以下、その男の連絡先。 「1152、ランベス・ロード レッド・フォックス・イン、 ジャン・ロワン」 赤毛。茶色の目。額の左側に大き目のあざアリ。 ジャン・ロワン―― 「誰かをここにやらせよう。それから、コヴェント・ガーデンのバルフォア書店にも見張りが必要だ」 夕方、エリザベスは父親の部屋におかれている長いすから起き上がった。泣きながら眠ってしまった。時計が四時を指している。外はまだ真昼のような明るさで、窓から明るい陽が差し込んでいる。顔を洗いたいけれどベネもいないし、水がどこから出るのかも知らない。エリザベスは仕方なく持って来た小さなかばんからハンカチーフを取り出し、顔を拭いた。壁にかかった鏡であっちこっちにはみ出した髪の毛をまとめなおし、かなりましになったのを確認した。 これからどうしよう…… エリザベスは思案にくれた。コリンは自分が画材屋にいないので慌てただろう。きっとエヴァンズに叱られるにちがいない。かわいそうに。けど…… エリザベスは屋敷には戻りたくなかった。戻れないと思った。今でさえこんなに動揺しているのに……自分がさっき見たのは間違いなくシルヴィとメアリー・ラロルシュだった。 仮にメイフェアのあの屋敷に戻ったとして、自分はシルヴィが帰ってくるのを待つだけ? シルヴィの言うことをただ信じて、いつまでも、いつまでも、ただ待つだけ? エリザベスは自分で首を振った。 彼がもし、メアリー・ラロルシュとそういう仲だというのなら、この目でもう一度確認したい。そうすれば、あきらめもつく。あの屋敷で、じっと何もしないでいるのはもう耐えられない。ずっと放っておかれるのはもうたくさん。とにかくこのままではサウスハンプトンにも戻れない。彼とメアリー・ラロルシュがどういう関係なのかを見極めるまでは。彼らが本当に、本当にそういう関係だったなら……そしたら、自分はサウスハンプトンへ戻ろう。結婚する前に買った何も手入れをしていないあの小さな家へ。戻ったら戻ったできっとひどい噂がたつに違いないけれど、今のように死んだような生活をするよりはましだ。ここではほんの少しの地面さえ与えられないのだから。 自分がいなくなったと知ったら、エヴァンズはどうするだろう。シルヴィは戻らないだろうし、スコットランドヤードに届ける? けれど、体面を気にするなら行かないかも知れないわ。シルヴィもいないのだし。もしかするとエヴァンズはホレイショーに助けを求めるかもしれない。でも、ホレイショーだって何をどうやって探すと言うの? 手がかりなんて何にもない。自分はコヴェントガーデンのあの通りを偶然通りかかった辻馬車を呼び止めただけ。結局、警察に頼まなければどうしようもないわ。自分が見つかるまでにはきっと少し時間がある。屋敷のことを考えるのはしばらくやめようとエリザベスは思った。 部屋の中はどこもかしこも白い布をかけられているのを除けば、父が使っていたときそのままになっている。驚いたことに父のジョージはこの部屋の一室を図書室にして、大量の本や地図を保管していた。特に地図は専用の棚があり、大きな筒が整然と並べられている。こんなに大量に、一体何に使っていたのだろう。父がロンドンで何をやっていたか、エリザベスには全く想像もつかなかった。ただ、枢密院の議員として議会に出ているだけだと思っていたのに。棚を背にしてすぐそばにかけられた大きな家具の白い布を取ると、そこにはマホガニー製のすばらしい机があらわれた。机の上に、どこかから郵便で送られてきた地図の筒が三本あった。誰が置いたのか知らないが、父はこれを見ずに亡くなったのだ。エリザベスは筒に巻かれた札を見てまた驚いた。コヴェントガーデン・バルフォア古書店。昨日、シルヴィとメアリー・ラロルシュが出てきたあの本屋だ。 きっと有名な本屋なのだ。貴族なら皆が知っている。あの界隈はそういうところなのかもしれない。画材を薦められたあの店もそうに違いないから。 エリザベスはちょっと変わった紋章の描かれた筒の中身を机の上に広げた。大きな地図が二枚。片方は本当の地図でどうやらフランスのピレネーの山すそで地中海側のどこかのようだった。もう一枚は地図ではなく、ルブラン要塞という場所の地図らしかった。不思議なつくりだ。それにはいくつか書き込みがあり、武器庫や弾薬庫などの物騒な文字が並んでいる。不気味なことに、この要塞の図面を取り出したとき、そのキャンバス地の裏側から乾燥した薄い紙が剥がれ落ちた。そこに貼ってあったのは、明らかに軍艦の設計図の一部だった。 この地図は昔のものではなく、最近のものだ。書き込みも新しい。それにまるで隠すように裏に貼られてあったこの設計図……貼ってすぐはわからなかっただろう。絵を書いたことがない者だったら単純に厚いキャンバスだと思ったに違いない。 父は一体何の仕事をしていたのだろう。こんなものがここにあるなんて。父はただ枢密院で議員をしていただけではなかった? エリザベスはその地図と設計図を巻き、元の筒に戻した。そして、本棚の地図が筒が収められている棚の一番端に入れた。 四時三十分。まだ早い。エリザベスはこの後どうしようかと考えたが、もう一度、ハイドパークのあの家へ行って見ようと思った。さっきは気が動転して、まるで逃げ出すようにここへ来てしまったが、シルヴィはまだあの家にいて、もしかしたら出てくるかも知れない。もしシルヴィに会ったら…… ――もし、シルヴィに会ったら――悲しいことだけれども、自分はサウスハンプトンのあの家に帰ろう。ここには自分のいる場所はない。 エリザベスはその部屋を出て、建物の表でまた辻馬車を拾った。ハイドパークに着くまでのほんの短い間、エリザベスはどうしてこんなことになってしまったのか自問していた。きっと自分が欲を出したから。シルヴィはもともと自分のそばにいてくれる人ではなかったのだ。自分に見合わないことを望んだから、神様から罰を受けることになったのだ。彼が自分のことを好きになってくれたかもしれないないなんて、どうしてそんな高望みをしたのだろう。エリザベスは、戻れるものならシルヴィが再びサウスハンプトンへやってくる前に戻りたいと思った。 ハイドパークの西側にある、メアリー・ラロルシュの家に再びやってきたエリザベスは、辻馬車を待たせて家の玄関から見えないところに降り立った。しかし、降り立ったそのすぐ後に、玄関脇の厩舎から小さな馬車が引き出され、玄関前に止められた。さっき画材屋の前で見た馬車とは違う。エリザベスは待たせていた辻馬車に再び乗り込み、メアリー・ラロルシュの家から誰が出てくるのか、心臓がつぶれそうな思いで見つめていた。 メアリーの家から出てきたのはおそらくメアリー・ラロルシュだけだった。エリザベスの位置からは良く見えなかった。馬車に乗り込んだのは多分一人きり。シルヴィはいない。エリザベスはそれでもメアリーの馬車の跡をつけさせた。 ロンドンは広い。目は開いているが、自分がどこを走っているのかさっぱりわからないままだ。通りに書かれた看板を見てエリザベスはそこがブルームズベリーだと知った。人通りの決して少なくない広い通りの古い建物の前でメアリーの馬車は止まった。メアリーの見えない糸に引かれるように、エリザベスも辻馬車を降りて同じように建物の中に入った。そこがどこかもわからないまま。 建物の入り口は古いしつらえであるが、絨毯が敷かれ、重厚できちんとしていた。メアリーは知り合いに挨拶しながら建物の奥の方へ歩いて行く。女性が従者もつけないで一人で出歩くのも考えられないが、エリザベスも気づくと同じことをしていた。廊下を歩いていくと、建物の中庭にちょっとした池のようなものがあるのが見えた。こんな場所に水を引いているなんて。庭自体は暗くてよく見えなかったが、水が光っているのはわかった。廊下を進んでいくと、奥の部屋の扉が大きく開かれている。特に呼び止められることもなく、エリザベスもメアリーに気づかれないように後から部屋に入った。入り口に続いた大きな広間には二十人は人がいるだろうか。男性の方が圧倒的に多いが、皆、飲み物やタバコを片手に何人かでまとまって話をしていた。部屋の中心にはプレイエルのピアノが置かれ、男性が朗々と歌を歌っている。ここは何かのクラブなのだろうか。女性も入れるクラブ? こんなところにメアリーのような女性が一人で何しに…… エリザベスは入り口近くの廊下で、一旦見失ったメアリーを探していた。そこで、突然誰かに腕をつかまれた。 |
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