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夜の庭   第三章   


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「エリザベス! こんなところで何してるんだ」

 エリザベスが驚いて振り返ると、アンドルーがそこにいた。いつもと変わらず美しい顔で、金色の髪がつやつやしている。顔は笑っていないが。
アンドルーはエリザベスの腕を掴んで別の部屋に連れて行った。

「一体、どういうことだ? どうしてこんなところにいるの? 君、ここがどういうところか知ってるの?」
アンドルーは怒っていた。エリザベスは返事も出来ず下を向いた。どうしてこんなところで……
「一人で来たの? それとも誰かと?」
アンドルーはいらいらしているようだった。何か答えなければ……
「ひ、一人で来たの……あの人を追いかけて」

「あの人って誰?」
エリザベスは躊躇したが、泣きそうになりながら答えた。
「メアリー・ラロルシュ……」

「ラロルシュ? マダム・ラロルシュ? 彼女がどうかしたの?」
「どうかしたって……」
エリザベスはもうこらえきれなくなった。涙がぽろぽろ零れ落ちた。アンドルーに何と説明すればいい? 彼に嘘などつけない。

「エリザベス! どうしたの?」
アンドルーはエリザベスが落ち着いて話ができるよう、壁際においてあった椅子に座らせた。そして自分も隣に座って、エリザベスの涙がおさまるのを待った。

 しばらくして、ようやく話が出来るようになったエリザベスに、アンドルーはやさしく訊ねた。
「さぁ、一体どうしたのか、はじめから話をしてごらん。僕はずっと君の味方だよ」

 エリザベスは結婚式を挙げてから、ロード・シルヴィにずっと放っておかれていたこと、先日、やっと戻ってきたのにまたフランスへ行くといって出かけてしまったこと、それなのに、今日、メアリー・ラロルシュといるところを偶然見かけてしまったことを話した。また、ベネが姉妹の怪我でサウスハンプトンに戻ってしまっていて、替わりに一緒にいた従者をだましてきてしまったことも正直に言った。アンドルーはどんなことがあっても、自分の味方でいてくれる。エリザベスにもそれはわかっていた。

「私、もうロンドンで、このままあてもなく一人でいるなんて耐えられない。自分がどんな高望みをしたのか、わかってはいるけれど、シルヴィとメアリー・ラロルシュのことが本当なら、この目でどうしても確かめたいの。そうしたら、あきらめもつくわ……ずいぶん長いこと彼を想って来たけれど、やっぱり間違いだったって……」

エリザベスの頬にまた涙が伝った。アンドルーはそれを自分が持っていたハンカチーフで拭いた。

「ねぇ、エリザベス。君の気持ちはわかるけれど、シルヴィのお屋敷の人たちは皆、君を心配してると思うよ。だって、その画材屋から消えたみたいにいなくなったんだろう?」
「そうかもしれないけれど……」
「――君がどうしてもロード・シルヴィとマダム・ラロルシュのことを確かめたいっていうなら、僕は何とか協力する。けど、黙って屋敷を出るのはいただけないな。君はこんな風にロンドンの街を一人で出歩いちゃいけない。 ここはサウスハンプトンとは違うんだよ。あそこでは誰もが君のことを知っていて、いい意味でも悪い意味でも人の目があった。けど、ここでは君のことなんか誰も知らない。悪い人間も一杯いる。ちょっといい身なりの女性がさらわれたって、誰も気にしない。わかるだろう?」
アンドルーが言うことは正しい。エリザベスはしぶしぶ頷いた。
「ここにはマダム・ラロルシュを追ってきたと言ったね。彼女がどんな人か知ってるの?」
「いいえ。この間、ある方のお屋敷の夕食会に招かれたときにシルヴィと親しげに話をしていたの。私が聞いたのは、ご主人が革命で殺されてロンドンに戻ってこられたってことだけ」
「――ふーん」
アンドルーはちょっと考え込むようにして下を向いた。
「じゃあ、ここはどういうところか知ってるの?」
「いいえ」
エリザベスが泣き顔で首を振った。
「ここはね、僕たちのような売れない文士や画家、それに音楽家が集うバタフライクラブっていう芸術家のサロンなんだよ。お金持ちのパトロンが何人かいて、この場所を借りてくれてる。ただ、言いにくいことだけれど、ここは君のような身分のご婦人が来るところじゃない。……その、わかるだろうか……僕はやっていないけれど、阿片チンキを常用している人間だっているんだ。でも、中には本当に将来を期待されている奴もいる。マダム・ラロルシュはそのパトロンの一人。彼女は自分の屋敷でもサロンを開いているし、食べるのにも困っているような芸術家に力を貸してくれる。ここに出入りする人間は身分はいろいろだけれど、マダム・ラロルシュを悪くいう人間はいないだろうな」

エリザベスにはアンドルーの言わんとしていることがわかっていた。つまり、口に出せないいかがわしいことも行われているところだということね。けれど、マダム・ラロルシュはいい人だと。

エリザベスはちょっとがっかりした。おそらく彼女は結婚したすぐ、自分の夫と一緒にいたのだ。もっと悪い人だと言ってもらえたら良かったのに。

「そうなの……彼女がロード・シルヴィと一緒にいたのを見たことがある?」
「いや、僕は一度もない」
アンドルーは首を振った。
「でも、私は見たの」
うつむいたエリザベスの表情を窺いながらアンドルーはエリザベスがひざにおいていた手を握った。
「君は本当にそれを確かめたいの? どんな結果になってもいいの? 君は彼に長いこと……」

「ええ。でも、もうおしまいにしなきゃいけないわ。こんなことしてたら、私、本当におかしくなってしまう。自分が自分でないみたいだもの」

ふと視線をあげたエリザベスの表情にアンドルーはその決意を見て取った。しばらく考える時間を置いて、アンドルーはメアリー・ラロルシュとシルヴィのことは自分が調べると約束した。そのかわり、エリザベスにはメイフェアの屋敷に戻り、連絡があるまでおとなしくしているように約束させた。


 アンドルーの言うことは正しい。ベネもいないのに、一体屋敷を出て一人で何が出来ると言うのだ。エリザベスはあまりにも自分の考えが短絡的で浅はかだったことを思い知った。


 屋敷に帰る手はずは全てアンドルーが整えてくれた。このサロンに来ていたアンドルーの友人である女優のミス・トレイシー・ジェキルがエリザベスをメイフェアまで送っていってくれることになった。屋敷の使用人たちに不信がられないために、ミス・ジェキルは屋敷につくなりエヴァンズに、このご夫人がコヴェント・ガーデンの通りで具合が悪くなって、自分が家に連れて帰って介抱していたのだと嘘をついた。

 ミス・ジェキルの演技は素晴らしかったが、エヴァンズが疑っていることは明らかだった。もし、ほんとうに具合が悪くなったとしても、誰かを屋敷によこすくらいは出来ただろうに。そう考えてあたりまえだ。しかし、とにかく屋敷に戻ってきたエリザベスにエヴァンズは何も言わなかった。いずれにしてもエリザベスの顔色が悪いことは明らかで、エヴァンズでさえ主治医を呼ぶべきかどうか、悩むほどだったが、エリザベスがその必要はないと言い張ったので、医者は呼ばれなかった。エリザベスはそれからしばらく部屋を出ず、寝室で窓の外を眺めながらアンドルーからの連絡を待ち続けた。


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