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夜の庭   第三章   


                           -9-



 
 「待ち望んでいたとはどういうことだ?」

目を見て話をするように言われててはいたが、エリザベスはとてもそんなことはできなかった。ドアの前に立ちふさがったシルヴィから少し離れてエリザベスは立ち止まった。

「私にそんなに興味があるとは思いませんでしたわ。ひと月、何の音沙汰もありませんでしたのに」
エリザベスは何とかこの場を逃げ出そうとしていた。そうできるなら、シルヴィの痛いところをついてもかまわないと思った。
「だからそれは悪かったと言っている……」
「あなたこそ……あなたこそ、どうして私を妻にしようなどと、奇特なことを考えたのです? ああ、でもそれは口が裂けても本当のことなど言えませんわね。殿下からのお話では断りようが――」
エリザベスがそこまで言うと、シルヴィはかっと目を開いて、エリザベスの腕を猛然とつかんだ。

「そんな話を誰から聞いた? だれだ? ケイティか?」
シルヴィはエリザベスの肩をつかんで揺さぶっていた。エリザベスは突然恐ろしく変わったシルヴィに、震えながら身を硬くした。男性の強い力でそんな風にされるのははじめてだった。

シルヴィはエリザベスが怖がっているのに気づいて揺さぶるのをやめた。そして、エリザベスの肩に手をかけたまま一度下を向いて大きく息をついた。
「よろしい。では、私のことから話そう。そのかわり君も私が訊いたことに正直に答えるんだ。いいね?」
グレーの強い青みがかった大きな虹彩の瞳がエリザベスを見た。ああ、一体何が……エリザベスは動転していたが、ケイティのことはそれでも絶対に話すまいと決心していた。


 シルヴィはテーブルに置いてあったエリザベスのグラスを取り、残っていたワインを飲み干した。エリザベスも一度大きく深呼吸して、気を取り直そうとした。――もう大丈夫。たぶん。
「君が言ったように、確かに、皇太子ははっきり言わなかったが、そう仕向けられた。多分ピアソンがはじめに話を持っていったのだと思う。どうしても私と君を結婚させたかったのだ。ピアソンがどうしてそうさせたかったのか理由はわからない。話がはじめに出たのはもう一年以上も前のことだから、もしかすると、君の先行きを心配した父上から頼まれていたのかもしれないな」
「父が?」
エリザベスはそれを聞いてまさかと思った。父は私を結婚させたくなかったのだ。父が頼んでいたなんてありえない。
「バーティの方は私がロンドンにいるのを以前から望んでいたから、結婚すれば家にいると思ったんだろう。私もはじめはそうするつもりだったが、フランスへ行けと命令がでた」
その話はどこまで本当なの? はじめは家にいるつもりだった? けど、命令が出たから、何の音沙汰もなくひと月も家を空けたというの? エリザベスはシルヴィが信じられなかった。
「そうですわね。私は別に――あなたがお仕事でどちらにいらっしゃろうが、文句を言うつもりはありません。私の好きなようにさせてくださるのですから。さっきのは失言でしたわ」
うつむいたままエリザベスが言った。シルヴィはやはり義理で結婚したのだ。あんなことを言うのではなかった。自分が告白したところでどうなるというのだ。
「だが、この有り様は夫婦ではないと思っている。そうだろう?」
エリザベスはシルヴィがそんなことを言うのに驚き、また答えに窮した。こんな話をしていったいどうなると言うのだろう? 私は何も望んでいない。ただ、時折、あなたが帰ってきてくれて、その顔を見せてくれるだけでいいの。それ以上は望まない。
「私がどう思うかなんて、いちいち斟酌しないでください。私はあなたの妻でいられるだけで充分なのですから」

しかし、シルヴィはそれを聞いて大きく首を振った。
「エリザベス。君が怒っているのはわかるが、私が君を屋敷の置物にしたような言い方をするのはやめてくれ。私は君を妻として迎えた。確かに人から薦められたことではあったが、後悔などしていない。それどころか……」
シルヴィは言いよどんで、エリザベスの顔をまじまじと見つめた。「ひと月もほうっておいて本当に悪かった。これからは――」
シルヴィがエリザベスの手を取ったその時、閉ざされた食堂の扉の裏から誰かがノックするのが聞こえた。


「だんな様。ピアソン卿から使いが来ています」
エヴァンズが扉の裏にいた。シルヴィは一瞬迷ったようだったが、ドアの向こうのエヴァンズに叫んだ。
「ホールに待たせておいてくれ」
そして、エリザベスを自分の方へ引き寄せて強引に唇を重ねた。

 それは今までエリザベスが覚えているあの泉のほとりでかわしたのと同じ、長くて熱い本当のキスだった。あの時と同じで、エリザベスははじめ、どうやって応えたらいいのかわからなかった。シルヴィがエリザベスの口を少しずつ開かせ、エリザベスはおそるおそるそれに応えた。シルヴィが自分を求めている……泉のそばで交わしたキスは何度も夢に見た。何度も夢に見ているうちに、あれが現実だったとはとても思えなくなっていた。けど、これは……身体中が緊張しているけれど……本物のシルヴィ。彼が次はどうしたらいいか教えてくれる。エリザベスは自分の身体がだんだん熱くなって来るのを感じた。

 しかし、シルヴィはピアソンの使いのことを忘れてはいなかった。エリザベスの気持ちとは裏腹に、シルヴィはエリザベスを開放した。エリザベスはその衝撃を隠せず、胸を抑えながら大きく呼吸をした。シルヴィはエリザベスを見て微笑み、頬に手をあててもう一度軽く唇に触れたが、その後すぐ、食堂のドアを開けてエヴァンズから使いが持ってきた手紙を受け取った。暖炉のそばまで歩きながら手紙を読むと、シルヴィは暖炉の壁をドンとたたいた。
「こんな時に!」

 ピアソンはパリでスエズ運河に向かう船の安全を確保するため、フランス政府に海賊船の一掃を同盟国として持ちかけていた。ピレネーのフランス側の地中海に面した場所からはしょっちゅう海賊に襲われる船が出ている。フランス政府は了解したが、この場所の元々の領主であるラトゥール・ドゥ・カロルの城主にはあらためてイギリス政府から正式の協力要請を出さなければならない。ピアソンはその親書を手配して、すぐフランスへやってくるように言ってきたのだった。

 ダウニング街に戻って、十番地にいるあの男をたたき起こすよう手はずをつけ、親書を書いてもらわねばならない。一晩で終わるか。一旦はここに戻ってこれるだろうが……

腕組みしてしばらく立ったまま考え事をしていたシルヴィはエヴァンズに言った。

「出かけるからしたくをしてくれ」




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