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夜の庭 第三章 -8- |
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ケイティと別れて家に戻ると、ベネが走りよってサウスハンプトンから手紙が来ていると告げた。エリザベスは手紙を受け取った。おばのエレンだった。都会にあきたら一度戻っていらっしゃいと書かれてある。エリザベスは胸が熱くなった。どうしてエレンにはわかったのだろう。その時、エリザベスはふと気づいた。そばにいるベネの様子がなんだかおかしい。 「どうしたのベネ? 元気がないわね」 ベネはそう言われて泣き出しそうになった。 「奥さま……実は、ダウニーの家の馬が暴れて妹が大怪我をしたらしいんです」 「まぁ!」 ダウニー家はサウスハンプトンの街でベネの妹、エイミーが働いている家だった。 「では、戻らなくては。サウスハンプトンに。こんなところでぐずぐずしてちゃだめよ」 「でも、奥さま……」 「大丈夫。私も後から行くわ。おば様が一度戻ってこないかって言ってくださってるの」 エリザベスは言いながらベネが差し出した手紙を読んだ。エイミーの夫のトムからだった。命に別状は無いが、怪我がかなりひどく、出来れば手伝いにきてもらえないかと書いてある。エイミーには子供が二人いるのだ。 「やはりあなたはすぐ戻らなければ。私もだんな様からお許しを頂いたらすぐ行くから」 「なら私も一緒に……」 ベネが自分をほうっておけないと思うのはありがたかったが、エリザベスは今すぐエイミーのところへ行くべきだと思った。 「だめよ。すぐ戻るの。あなたはシルヴィの使用人ではないのだから。さ、支度をしていらっしゃい」 こういうときのエリザベスはとても頑固だった。ベネは後ろ髪を引かれるようだったが、エリザベスにせかされて、エリザベスが湯浴みしたすぐ後に屋敷を出た。エリザベスはエイミーのために必要なものを買いなさいといって、ベネに金貨を持たせた。 エリザベスが着替えて夕食に降りていくと、シルヴィはとてもすっきりした様子で既にテーブルについていた。 「ようやくお出ましだ」 まるで自分を待っていたかのようにシルヴィが言うのを白々しく思いながらも、エリザベスは「すみません」と謝った。 いつもいない人がいると、それだけで緊張してしまう。おまけにそれはあのシルヴィなのだ。そんな風に私を見ないで。エリザベスは心の中で叫んだ。 「エヴァンズが昼にとてもうまいラムを出してくれた。君にそうしてくれるよう頼まれたからと」 エリザベスは驚いてエヴァンズの方を見た。私に言われなくても、あなただって当然そうしたはずなのに。けれどエヴァンズは知らん振りしている。 「だから、礼を言っておこうと思った。昨日は疲れていてちゃんと話をきいていなかった。悪かった。それに……」 「それに? まだありますの? 私はおなかがすいて倒れそうですわ」 シルヴィはエリザベスがおなかを押さえたのを見て、笑いながら首を振り、食事を始めさせた。 久しぶりに外で長時間過ごしたエリザベスはとても疲れていた。けれども、それは心地よい疲れだった。本当に空腹だったエリザベスは、主人のお祈りが終わると、テーブルに出てきたものをすぐに口にしたが、シルヴィは食事はそこそこに、エリザベスを見ながらワインを飲んでいる。変な感じだ。食事しているところを見つめられるのは。 「今日の写生会はどうだった?」 一瞬、ケイティとの会話を思い出したが、それは無かったことにしたのだと思い直した。 「楽しかったですわ。来ていらっしゃる方も皆さんとても親切な方ばかりで、私みたいな田舎者にいろいろ説明してくださって。ロンドンの画材屋はコヴェントガーデンがいいかとか、額縁を買うならカムデンの店とか」 「そうか……」シルヴィはワインのグラスをあけた。こんな話はきっと面白くないのだわ。エリザベスはそう感じたが、わざわざ彼が聞いてくれたという気遣いを見せてくれたことがうれしかった。 「そういえば、この一ヶ月のうちに来た請求書だが、あれだけか? 君は私が頼んだガウン以外の買い物はしなかったのか」 エリザベスは食事を進めながら少し考えて返事をした。 「この家のことは全部エヴァンズが管理していますし、私が口出しするところはありません。特に足りないものも無かったし、ただ少し画材を買ったのと、あと、新しいピアノの楽譜を少し」 エリザベスは水疱瘡が流行った時の話は黙っていた。疲れていたので面倒な話をしたくなかった。 「ああ。確かにそれだけだった。なんと慎ましやかな生活だ。うちは貧乏してるわけではないのだから、君の好きなようにしていいのだ。もし、エヴァンズに言って足りないようなら言ってくれ」 エリザベスは小さくうなずいた。彼なりに妻という立場の人間に対して、敬意をあらわしてくれているのかもしれない。たとえ愛されていない妻だったとしても。 「ケイティとはずいぶん仲良くなったんだな」 不意にシルヴィが訊いた。 「ええ。とても楽しい方ですわね。それに親切だし」 「それには同意しかねるが……ああ、そういえば、昨日の君のピアノはなかなか良かった」 ケイティについてのその言いようはどうかと思ったが、一方でピアノのことをほめられ、エリザベスは悪い気分ではなかった。しかし、口について出た言葉は正反対だった。 「このひと月、することがなくて、ピアノも随分弾きましたから」 エリザベスのこの一言に、シルヴィの片方の眉が上がった。 「うちのマダムはなかなかきついことを言う」 本当のことではあったが、言わなければ良かったとエリザベスは一瞬にして後悔した。シルヴィはそばにいたエヴァンズに自分の食事はもういいからと言って下げさせ、自分の席を立ち上がった。そして、まだ食事をしているエリザベスの横に、自分のワインの入ったグラスだけを持ってやってきて隣に座った。 また余計なことを言ってしまった。彼が自分をどんな風に扱おうが、気にするまいと思っていたのに……エリザベスは一体何が始まるのかと思い、どぎまぎしはじめた。 「食事を続けたまえ。君のその美しい食事風景を心にとどめておきたい」 エリザベスはなんだか食事どころではなくなってしまった。すでに酔っている? エリザベスはエヴァンズに頼んで自分の皿も下げさせ、主人と話があるので、下がるようにメイドたちに言った。 「ゆっくり食べればよかったのに。腹が減っていたのだろう?」 シルヴィは言ったが、エリザベスはとてもそんな気になれなかった。 「お話があるのならお伺いします」 エリザベスは右手の指輪に力をもらうように手を組んで、シルヴィの方へ向き直った。 「よかろう」 そう言ってシルヴィは自分の膝をたたき、腕を組みなおした。 「さて……君は今日、私が君の主人かどうかわからなくなったと言った。私は今日一日、君に時間をやるといったが、考えはまとまったか」 ――何かと思ったら、その話。エリザベスはちょっとうんざりしながら答えた。 「ええ」 「で?」 どうしてこの人がこんなことを気にするのだろう。エリザベスにはその理由がわからなかった。 「あなたは間違いなく私の主人でした。それを否定することは許されないようですわ」 シルヴィはまた眉を上げた。 「なぜそう思うのだ」 「それは私よりあなたがよくご存知のはず。私に選択肢などありません」 エリザベスは静かにそう言い、うつむいた。 いとこのジョンはずっとサウスハンプトンの家にいても良いと言った。叔母のエレンもそうだ。ジョンの妻、カミラを除いては、誰も自分があの屋敷に残ることを反対するものなどいなかった。けれど、父が亡くなってしまって、自分が主でもない以上、やはりあそこにはいられなかった。居候のようなことにはなりたくなかった。けれど、一人で住んでも良かったのだ。それを彼がプロポーズしたのをいいことに、何も考えずに簡単にそれを受けてしまった。もはや帰るところなどない。 「このひと月、ほとんどどこにも出かけていないそうだな。誰もこの屋敷に呼んでもいないようだし」 「エヴァンズからそうお聞きになったの?」 「そうだ。だが、できることなら、私は君とうまくやっていこうと思っている。やっとロンドンに戻ってきたし、ひと月も君を放っておいた償いをしたい。しかし、君がもしそっとしておいてほしいというなら……」 「どうしてそんな……私は…私はそんなつもりで結婚したのではありません」 エリザベスはシルヴィをさえぎるように言って立ち上がり、シルヴィに背を向けた。どうしても私に言わせたいのなら、そうしてあげるわ。それを言ったからって、何かが変わるわけではないでしょうけれど。 「――もちろん、普通の幸せな結婚生活を望んでいましたわ。だって、あなたは……あなたは私がずっと待ち望んでいたその人だったから」 とうとう言ってしまった――シルヴィが自分をどういう風に思っているかもわからないと言うのに。エリザベスは胸が苦しくなり、その場に居たたまれなくなって自分の部屋へ戻ろうとした。このままここにいたら、悲しくて、恥ずかしくて、気が変になってしまう。しかし、シルヴィも立ち上がってエリザベスに先回りし、食堂のドアの前に立ちふさがった。 |
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