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夜の庭   第三章   


                           -7-



 
 朝になり、昼が来てもシルヴィは戻ってこなかった。夕方、ケイティから使いが来てメッセージを置いていった。明日、八時に皆とヴォクソール公園の入り口のところで待ち合わせしているという。残念だが、シルヴィが戻ってこなければ出かけることはできない。エリザベスは明日の朝、もし行けなくなりそうだったら、使いを出さねばと考えた。

 しかし、その夜遅くになってシルヴィは屋敷へ戻ってきた。寝不足で疲れきっており、あっという間に自分の寝室にはいってしまった。エリザベスはシルヴィを追いかけていって、彼が寝床に入る寸前に、明日ケイティから写生会に誘われているので出かけてもいいかどうか訊ねたのだが、シルヴィはどうでもいいような返事をやっと返しただけだった。

疲れていらっしゃるのね。本当に。お仕事のことでめいいっぱいなのね。私のことは考える暇などないのね。やっと帰ってきてくださったけれど……

エリザベスはシルヴィの寝顔を見ながら、また泣きそうになった。手を伸ばせば届くところにいるのに。こんなに近くにいるのに。触れることさえできないなんてあんまりだわ……エリザベスはしばらくシルヴィの顔を見つめていたが、思いついたように自分のデッサン帳を持ち出して、シルヴィの寝顔を描き始めた。彼に触れることはできないけれど、この絵なら誰にも何も言われない。


 翌朝、エリザベスは早くから起きだして写生会に行く準備をした。シルヴィは昨日の夜から死んだように眠っているし、そのままにしておくのがいいと思った。支度を整えて、もう出かけるだけになったエリザベスはシルヴィの寝室に入り、ベッドの横にそっと立った。今まで見たことがなかったが、いつもきれいに剃りあげているひげが大分伸びている。昨日はたぶん剃らなかったのだ。エリザベスはシルヴィのそういうところが見られただけでも妻という特権はあったと思った。そうっと手を伸ばして、そのひげの伸びた頬に触ろうとしたが、ぎりぎりのところで思いとどまってやめた。手を引っ込めようとしたその途端、エリザベスの腕はシルヴィにつかまれていた。

「どこへ行く。そんな格好で」

シルヴィは片目だけを開け、ブルーグレーの瞳でぎろりとエリザベスをにらんだ。エリザベスは驚いて身を引こうとした。なのに、シルヴィの腕の力が強くて全く動けない。
「ケイティから誘われたので、ワット夫人の写生会に。コリンに連れて行ってもらいますわ」
この人、怖い顔もハンサムだわ……

開けた片目をまた閉じて、シルヴィはエリザベスの腕を放した。心臓が止まるかと思った。エリザベスは胸をなでおろした。シルヴィがベッドに起き上がり、眠そうに伸びをしながら目をこすっている。
「話がある」

話? 話って今から? エリザベスは顔をしかめた。
「でも、もう出かけなければならないので」
エリザベスは今日は譲るつもりはなかった。これまで散々待ったのだ。しかし、シルヴィはそれを聞いて途端に不機嫌になった。
「たまに帰ってきた主人の話も聞けないのか」
エリザベスは躊躇したがそれでも引かなかった。
「たまにしか帰ってこられないから、あなたが本当に私の主人かどうかわからなくなりました」
シルヴィはその言いように驚いたようで、エリザベスを凝視し、それから少し間を置いてこう言った。
「そうか。妻が夫かどうかわからなくなるほど、私は家を空けていたのだな。それは悪かった。では今日一日時間を与えるから、よく考えてきてくれたまえ。私が君の夫かどうか」
エリザベスはシルヴィをにらんで憮然として部屋を出て行った。閉めたドアの向こう側からは、かみ殺したような笑い声がした後、それがどうにも我慢できないというような大笑いに変わった。

――まったく、何がおかしいの? おかしくなんかないわよ。

エリザベスはぷりぷりしながら馬車に乗った。そして、その後一瞬、涙がこぼれそうになった。なんてひどいタイミング。やっと帰ってきてくれたシルヴィが自分に関心を向けてくれたというのに。エリザベスは自分からそのチャンスを放り出したことをひどく後悔した。

エヴァンズがエリザベスの見送りに出てきた。ふと思いついて、エリザベスはドア越しにエヴァンズに言った。
「だんな様はとてもお疲れのようだけど、もし召し上がれるようなら何か精のつくものをご用意して差し上げて」
いつもと変わらないエヴァンズは頷き、御者として乗ったコリンに馬車を走らせるよう合図した。

走り始めた後、エリザベスはすぐ気づいた。エヴァンズはそんなことは良くわかっていて、言われなくてもそうするだろう。しばらくいなかったとはいえ、自分よりはるかに長くシルヴィと暮らしているのだから。彼にしてみたら大きなお世話だ。余計なことを言ってしまったとエリザベスは後悔した。


 ワット夫人の写生会は、久しぶりに外に出かけたエリザベスにとってはとても楽しいイベントになった。はじめに美術学校で絵画の教師をしているというバウ氏が紹介され、その後、ワット夫人が一人一人を紹介した。来ているのは貴族ばかりが十名ほどだったが、皆、感じの良い婦人ばかりで、エリザベスはこんな会に誘ってくれたケイティに非常に感謝していた。ケイティとエリザベスは同じ場所で違う方向を描き始めた。外で絵を描くのはなんと気持ちの良いことだろう。一緒にいるので、エリザベスはケイティにシルヴィとのこれまでのことを根掘り葉掘り訊かれることになった。

「ねぇ、エリザベス。本当のところ、あなたたちの結婚には、私の父がどのくらいかかわっているの? 私の父がどうしてもと?」
ケイティは申し訳なさそうだった。彼女も何か知っているのだろうか。
「いいえ。確かに叔母に手紙を下さったのはピアソン卿だけれど。本当はどうしてシルヴィみたいな人が、私みたいな田舎者と本当に結婚する気になったのかわからないでいるの。ロンドンにはそうでなくてもきれいで賢いご婦人がたくさんいるわ。わざわざサウスハンプトンみたいな田舎からもらわなくても」
「でもあなた、言葉はほとんどなまってないわ。きっとかなり間延びした話し方をする方だろうって噂もあったのに」
ケイティは言った。父が厳しかったから、話言葉は決してなまってはならなかった。父はこんなことまで想像していたのだろうか?
「――シルヴィが何を考えているのかは私にもわからないわ。もしかしたら、シルヴィが結婚する気になったのは、たぶん皇太子からもそうするように言われたからかもしれない。バーティはシルヴィより二つ年上だけど、ずっと学校も一緒で、とても親しいの。外国に行ってばかりのシルヴィに、少しは腰を落ち着けてロンドンにいて欲しいって望んでいらしたのは確かね」
「皇太子?」
エリザベスはめまいを感じた。ああ、だから断れなかったのか。この話は。
「ねぇ、エリザベス。聞いて」
ケイテはエリザベスの方へ自分の身体を向けた。
「シルヴィはとても傲慢な人よ。人の言うことなんてめったにきかないわ。それでもあなたと結婚した。だからシルヴィにはあなたの夫としての責任があるわ。けど、その責任を果たさないなら、あなたは自分の好きにすればいいんじゃない? お金に困っているわけではないのだし」
そう言われても、エリザベスは沈んだ気持ちを立て直すことができなかった。
「――そうね。彼はどうしてかわからないけど、結婚する必要があったのね。本当は誰でもよかったのかもしれないわ」
それは私も一緒だろうか。結婚しないで独り身でいるのはみじめだった?
「もうひとつ知りたいことがあるの。あなたはシルヴィの昔から知り合いならよく知っていると思うけど。シルヴィは本当は何の仕事をしているの?」

ケイティはこの質問の答えには困ったようだった。しかし、しばらく無言でエリザベスを見て、重い口を開いた。
「――私の父と同じ仕事よ。あなたは何も知らされないで連れてこられたのよね? 当然だわ。私だって真実を知ったときにはものすごく驚いたんだから」
「私が知っているのは、彼が外務省にいる外交官だということだけ。どうして彼のような人間がそんなところで働かないといけないのかよくわからないけど」
「外交官は表向きの肩書き。彼の本当の仕事はヨーロッパ向けの諜報活動……」
「諜報活動?」
エリザベスはそれ以上言葉が出なかった。つまり、つまりそれはスパイ活動ということ? この間のアーガイル公爵の食事会でコールマン司令官とメアリー・ラロルシュが言い争ったのはそのため?

「――なんだか頭がくらくらするようなことばかりだわ」
エリザベスは呆然として倒れそうだった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。エリザベス。私、シルヴィや父に叱られるわ。こんなこと本当は家族にも言ってはいけないのに。実際私の母は知らないのよ。父がそんなことをしてるなんて」
「大丈夫。私は大丈夫よ……別に、だんな様がどんな職業でも、私が変わるわけじゃないし。ただ彼が、家にいられない理由がよくわかったわ」

 エリザベスはしばらくぼうっとしていたが、思い直してまた絵筆を取った。シルヴィがどんな職業だろうと、自分には関係ない。この結婚はただの契約のようなもの。彼が自ら望んだことではないし、私はたぶん、父親が亡くなって財産を失ったかわいそうな娘としてピアソン卿の目に留まっただけ。それなら、彼の邪魔にならない程度に自分のしたいことをすればいい。元々そうしようと思っていたのだし、彼が帰ってきたからといって、何かを期待するなんてもってのほかだわ。

「ケイティ、私、さっきの話は聞かなかったことにするわね。でも、もちろんあなたが教えてくれたことには感謝してるわ。私、彼の仕事に差し障りが無い程度に自分のことができればそれでいいわ」
筆についた絵の具の色を薄くしながらエリザベスが言った。
「ありがとう。そう言ってくれたら気が安らぐわ」
ケイティはエリザベスの腕にそっと手を置いて微笑んだ。


 夕方、エリザベスの描いたデッサンを見たバウ氏は、できればこれまでに描いたものも見せてほしいと言った。エリザベスはピアノも好きだったが、絵を描くことはそれ以上に好きだ。母が肖像画家のようなことをしていたからかもしれないが、自分も本当はそうなれればいいと考えている。もし本当に才能があるならの話だが。けれど、絵を描くなら、ロンドンではなくて、やはり故郷のサウスハンプトンが良かった。サウスハンプトンでは庭仕事の合間にさんざん絵を描いていた。あの美しい自然の宝庫で、心に留めた風景をキャンバスにおさめておくのは絵描きとしての本能だ。人を描くのも好きだが、その人も、サウスハンプトンの景色の中では一枚の風景となる。エリザベスは故郷が懐かしく、恋しかった。


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