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夜の庭 第三章 -6- |
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シルヴィはエリザベスのところへ戻って来ず、そのままラロルシュ伯爵夫人と一緒に先に隣の部屋へ移っていった。エリザベスはコールマンに促されて立ち上がりはしたものの、自分が置いていかれたことにがっかりした。 「はじめまして、私、レイモンド・ピアソンの娘のケイティ・アシュフォードです」 後ろから声をかけられたエリザベスが振り返ると、自分より少し年上の女性がにっこり笑って立っていた。 「ようやくお会いできたわ。うちの父があなたのことばかり話すものだから、まるで他人のような気がしていなかったけれど、まさかこんなきれいなお嬢さん……あら失礼、もうご夫人だったわ……とは思わなかったわ」 「はじめまして」 エリザベスは控えめに微笑んだ。 「司令官。こんなきれいな女性を独り占めしていたら、他の殿方にうらまれますわよ」 ケイティはそう言って、エリザベスをコールマンから引き離し、その手を取ったまま隣の部屋へ移った。 食堂に続くその部屋には大勢の男女があちこちに散らばっていた。エリザベスはもうシルヴィのことは探そうとはしなかった。私は彼にとってはどうでもいい存在なのだ。 「あなたはいつこちらへいらっしゃったの?」 ケイティの問いにエリザベスはふと笑って「ひと月前です」と答えた。 「そうだったの。父からシルヴィが結婚すると聞いたのもそれより少し前だったわ。ずいぶん急だったのね。まさか彼がまた結婚するとは思わなかった。シルヴィにはどこで?」 どこで……それは…… 「父が亡くなってしばらくしてピアソンおじ様が叔母のところへ手紙を下さって、ロンドンで良い相手を探してきたから是非にと薦められたのです」 「ああ、ではやはり父がお膳立てしたのね。でも、お父様がなくなられたのは確か……ずいぶん急いだのね」 ケイティが言うのが非難のように聞こえて、エリザベスはうつむいた。確かに喪に服していてもおかしくはない時期だ。 「ああ、ごめんなさい。それより、なんだか私気になってしまって」 「気になる?」 「だって、シルヴィは結婚してから家に戻っていないんでしょう? 私、彼がフランスに突然呼ばれていったのは知ってるの。父が命令書を書いたから。だけど、そんなに急ぎの用件ではなかったと思うわ。それに新婚早々、たとえ呼ばれたらって、すぐに戻ってきて当然だと思ったの。おまけにフランスではあの女が一緒にいたとか」 ケイティの視線の先にはメアリー・ラロルシュがいた。シルヴィや他の男たちと一緒に歓談している。エリザベスは自分たちの奇妙な結婚生活が、他人の注目の的になっていることにあらためて気づかされた。他人から見てもこの理不尽な仕打ちに、自分が抗議もせず耐えていられるのも不思議といえば不思議だ。 「そうだったのですか。でも夫は仕事でと聞いていますから、私は待つ以外にありません」 エリザベスは心の中で泣きそうになりながら、静かにそう答えた。ケイティがエリザベスの手を取って言った。 「ねぇ、エリザベス。私にできることなら力になるわ。あなたは誰にも義理立てなんて必要ないのよ。もちろん、私の父にもね」 さっきとは違って、ケイティの言葉は温かく感じられた。ロンドンに来て、こんな風に話しかけられたのは初めてだ。 「ありがとう。私、ロンドンではお友達がほとんどいないので、毎日ピアノを弾いたり、絵を描いたりしているだけなんです。近いうちに遊びにきていただけません?」 「ええ。ぜひお伺いするわ。それにしてもシルヴィはひどいわね。一ヶ月も花嫁をお屋敷にほうりっぱなしなんて」 エリザベスはそれについては控えめに微笑んだだけだった。 「ケイティ! いいところに。ピアノを弾いて欲しいんだけど」 ルイーズ・キャロラインが部屋の中をぐるりと回ってきてケイティに声をかけた。 「私? ひどいわルイーズ。私が下手なのを知ってて意地悪を言うのね」 「でもいつもピアノは……」 「ルイーズ、ここにぴったりの方がいるわ」 ルイーズが言いかけたのをケイティが制して、満面の笑みでエリザベスの方をむいた。エリザベスはなぜケイティがそんなに微笑んでいるのかわからず目を大きく開けた。 「エリザベス。そうだわ。ピアソン卿の話ではピアノはあなたは相当の弾き手だと聞いていますよ。それに絵も描かれるんですってね。それも一度披露してもらわないと」 「私? 私がですか? まさか、何かの間違いですわ。私、人前でなんてとても……」 「人前と言ったって、コンサートではないのだし、ちょっと弾いていただければいいのよ。ね、お若い方がいいの。さぁ、こちらへ」 エリザベスは尻込みしていたが、ケイティとルイーズに押し出されるようにピアノの前に連れて行かれた。 シルヴィに放っておかれて、ひたすらピアノの練習とデッサンばかりやっていたのが良かったのか悪かったのか、こんなことになるなんて……エリザベスは不安を隠せなかった。 「みなさん。今日は新しいピアニストをご紹介しますわね。はじめてこちらに来てくださったエリザベス・グロブナーが弾いてくれることになりました。エリザベス、あなたが得意なもので結構よ」 ルイーズはエリザベスの方を振り返って言い、すぐにピアノから離れてしまった。その部屋にいる皆の視線が痛い。シルヴィもマダム・ラロルシュの隣で腕組みをして済ました顔でまるで他人のようにこちらを見ている。 自分は試されている。とエリザベスは思った。この程度のことが出来なければここでは受け入れてもらえないということか。エリザベスは無意識に自分の右手にある指輪を触っていた。そして何を弾こうか少し迷って、フィールドの夜想曲を弾くことにした。エリザベスは美しいこの一連の曲が大好きだった。夜、ローウェルホールの庭に出るとき、満天の星が光る空を見上げた時を思いおこさせる。人の歓談にも邪魔にはならない。これを弾いていると、いい気分になれる。 その短い曲を弾き終わった時、エリザベスには暖かい拍手が待っていた。シルヴィのほうを見ると、彼はメアリー・ラロルシュと歓談している。ピアノの椅子から立ち上がろうとしたその時、誰かが、「次は8番を」と声を掛けた。ルイーズの方を見ると、にこやかに笑って頷いている。と言うことはどうしてももう一曲弾かなければいけないということね。 エリザベスは結局、この後三十分ほど、ゲストの求めに応じてピアノを弾き続けた。いい加減疲れてきたと思ったころ、シルヴィが皆の前に進み出て言った。 「そろそろ妻を返してもらおう。こんなに疲れさせてはこの後の夜のお楽しみに触るのでね」 シルヴィはエリザベスの手を取り、ピアノの椅子から立ち上がらせた。ゲストたちが恨めしそうに背の高いシルヴィ見上げ、エリザベスは真っ赤になりながらシルヴィに連れられてその場を去った。 シルヴィがエリザベスをつれて帰る途中、ケイティが後ろから追いかけてきて、エリザベスに言った。 「ねぇ、エリザベス。あさってワット夫人の主催でハートヴェリーで写生会があるの。ちょっと朝早いんだけど、一緒に行きましょうよ」 「写生会?」 「ええ。写生会といっているけれど、みんな好き勝手に絵を描いているの。でも有名な先生もいらっしゃるから、描いた絵の講評をしていただけてよ」 エリザベスはすぐに行きたいと返事をしたかったが、シルヴィが帰ってきてしまった手前、勝手に家を空けるわけにも行かないと思い、「明日、お返事します」と言ってケイティと別れた。シルヴィは近くにいたローン候と立ち話をしており、ケイティとの話は聞いていなかった。行かせてはもらえないだろうか。エリザベスは明日もう一度、頃合をみて話をしようと決めた。 馬車の中で、シルヴィは何かじっと考え事をしており、エリザベスがとても声をかけられる雰囲気ではなかった。こうしていると、あのイースターの夜のことを思い出してしまう。彼には、はっきり言われた。「プリンストン家の女性に興味はない」と。その言葉の内容もそうだったが、自分からシルヴィに話し掛けてはいけないのだとエリザベスは思った。 馬車がメイフェアの屋敷についたその時、黒い人影がさっと馬車の近くに寄ってきた。エリザベスは一瞬ぎょっとして身を引いたが、シルヴィはここにつく前からその影に気づいていたようで、馬車を降りるシルヴィに何か紙切れのようなものを渡した。玄関の車寄せでずっと待っていたのだ。シルヴィはそのメモを読むなりさっと顔色が変わった。エリザベスを馬車から降ろし、もう一度自分は馬車に乗り込んだ。 「急な仕事が入った。今夜は帰れるかどうかわからないから、先に休みなさい」 エリザベスはシルヴィに何も訊く時間を与えられず、ただ彼を見送ることしかできなかった。本当はさっき、「この後の――」とシルヴィが言ったのにエリザベスは期待していたのだが、それははかない夢となってしまった。 彼はこの先もずっと、私とは夜を過ごさないつもりだろうか。 屋敷の自分の部屋に戻った後、エリザベスは眠ろうとしたが、なかなか眠りにつけなかった。シルヴィは、一体どういうつもりで私を妻にしたのだろう。もちろん、お互い相手を知らないことは承知の上だった。けれど、彼は自分に結婚を申し込んだのだ。 心から愛し合う人―― もちろん過去の彼にはいた。あの階段の踊り場にかかっているあの絵の人物。豊かな金色の巻き毛をもつ薄いブルーの瞳の人。 私はきっとあの人ほどは愛されない。確かに、自分は求婚されて彼と結婚した。けれど、それだけ。愛されているというには、程遠いようなあの物言い。彼が一言でも自分を気遣ってくれているようなことを言ってくれたら……他人の目を気にしてのことではない、自分の心から気遣ってくれているようなそぶりを見せてくれたら……エリザベスは顔を手で覆った。 私は馬鹿みたいに彼が好きなのだわ。自分ではどうしようもないくらい。あのどこにいても目立つ、背が高くてハンサムで自分とは違って頭の回転の速い彼が。 そうしてエリザベスはいつの間にか眠ってしまった。 |
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