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夜の庭   第三章   


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 食事の準備ができたことが告げられると、部屋にいた人々は一斉に食堂へ移った。シルヴィがどこからか現れたが、その隣には、妖艶というのがぴったりのシルヴィと同年代の女性がいる。

「あら、メアリー……いらっしゃってたのね」
エリザベスの心臓が鳴り出すのと同時に、ルイーズの友人であるレントン夫人がつぶやいた。明らかにシルヴィと一緒にいるのを訝っている。
「マリー・ラロルシュ伯爵夫人。元はメアリー・クレイパス。クレイパス子爵の末娘ですけど、フランスのラロルシュ伯爵と結婚して、伯爵が晋仏戦争の後、殺されて未亡人になってイギリスへ逃げ帰ってきたのよ。今、ハイドパークの近くで仮住まいしているのですって。お金には困っていないようだけれど、何をやっているのだか……外務省では彼女をうまく使おうとしているらしいけれど」
レントン夫人がエリザベスの耳元でささやいた。

 フランスでシルヴィが一緒だったと言うのはこの婦人だろうか? シルヴィとは自分よりはるかに親しげに話をしている。いや、実際のところ、シルヴィとうまく話ができないのは自分だけかもしれない。サウスハンプトンにいるときはそうでもなかったのに……今は自分の言いたいことさえ言えない。エリザベスは沈んだ気持ちを誰にも悟られないよう視線をそらした。


「ラロルシュ伯爵夫人のお席はグロブナー卿のお隣ですよ。いろいろお話がおありのようだから」
ルイーズはシルヴィたちに聞こえるように言った。そしてエリザベスとレントン夫人のほうに振り返って小声で耳打ちした。
「主人がどうしてもと言うんですのよ。あのスパイをシルヴィに貼り付けておく必要があるらしいわ」

 スパイ? エリザベスは不安な様子を隠せないまま、ルイーズにまるでかくまわれるように食堂へいざなわれた。エリザベスの席はホストに近い上座で、右隣はアーガイル公爵、左隣はコールマン海軍司令官だった。シルヴィはその正面におり、ルイーズとラロルシュ伯爵夫人と呼ばれた女性が隣にいる。

 食事はすばらしく、人々の話も弾んでいたが、エリザベスは静かに食事をしており、聞かれたことに応える以外は、特に自分から何か話すということはなかった。シルヴィは時々自分の方へ視線を向けてはいたが、初めてこのような場所に一緒に連れてきた妻を心配しているようなそぶりはなかった。確かにロンドンでこのようなパーティに呼ばれたことはないけれど、サウスハンプトンにだって社交界はある。気にされるほどのことはもちろん何もない。が、何も気にされていないのも悲しい。エリザベスは自分がシルヴィの眼中に全く無いことにがっかりしていた。

 食事が一段落したころ、ワインもそろそろ回り始めて人々の口が滑らかになってきたところで、エリザベスの隣にいたコールマン司令官が正面に座っているゲストにも聞こえるような大きな声で話し始めた。
「ここ最近は、海軍も暇でなくなりましてな。いつ裏切られるかわからない同盟のために振り回されておる。あっちの艦隊をこっちへまわし、こっちの艦隊をあっちへまわし。ロンドンにもスパイがうようよおりますのでな。変な輩にだまされないよう、気をつけねばなりませんぞ。スパイは男とは限りませんからな」
コールマンは正面にいたメアリー・ラロルシュのほうをちらと見ながらそう言った。しかし、夫人の返事にエリザベスは驚かされた。
「あら、男性でないスパイとは私のことでしょうか? コールマン司令官。でも、スパイがスパイらしくしていたらスパイじゃありませんわ。自国の要職について敵国に情報を流しているスパイにはもっと用心しなければ」
その場にいた何人かの顔が凍り付いたように感じた。突然始まった言葉の応酬にはらはらしながらも、エリザベスは自分の夫が夫人のドレスの袖の裏側をきつく引っぱっているのに気づいた。シルヴィがメアリー・ラロルシュに触れている。一体何を……しかし、すぐ思い直した。彼は止めようとしている?


「司令官。そういえば、最近わが方でもまた新しい装甲艦を作るらしいですわね。オーストリアとイタリアの戦争では装甲艦だけが沈んだようですのに、それでもこれからは鉄の船が増えるのですか」

エリザベスは会話が不自然に聞こえないよう、どきどきしながら二人の間に割って入った。

「マダム。そんな話をどこから?」

コールマンが突然不審の目を向けた。しかし、エリザベスはにっこり微笑んで言った。
「先月の海軍月報に載っておりましたわ」
シルヴィがいない間、メイフェアの屋敷で出来ることは限られていた。図書室はエリザベスのお気に入りの場所だ。エヴァンズが適当に分けた軍関係の冊子や新聞は、主人がいない間にもエリザベスが目を通していた。
「お若いのに、海軍月報など読んでいらっしゃるのか」
コールマンは感心したようにエリザベスの方を向き、話をはじめた。



「気をつけろ。相手の挑発に乗ってどうする」
シルヴィが小声でメアリーにささやいた。
「残念ながら、コールマンははずれ。けど、あなたの奥さまのおかげで、あちらも助かったみたいよ」
二人はまたテーブルの方を向いた。

ルイーズがころあいを見計らって「さぁ、みなさん、食事はそろそろ終わりにして、隣の部屋へ移りませんこと?」といったので、そろそろテーブルの皿に飽きてきていたゲストたちは皆立ち上がって隣の部屋へ移った。


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