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夜の庭   第三章   


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 エリザベスがサウスハンプトンへ行くのをやめて屋敷へ戻ってから二日が経った。その日の午前中、ミス・トレイシー・ジェキルからメッセージが届いた。アンドルーからだと咄嗟に思ったが、エリザベスは顔に出さずに、エヴァンズに今夕、出かけることを告げた。ただ、ミス・ジェキルが自分を遅い時間のお茶に誘ってくれているのだとエリザベスは言った。メッセージにもそのように書かれてある。アンドルーは抜かりがない。

先日からのことを案じているエヴァンズはゴードンを御者にして、コリンを連れて行くように薦めた。この後がどんな予定になっているかわからないが、ゴードンまで出てくると厄介だと思ったエリザベスは、ミス・ジェキルの家へは二頭立てでは行けないので、コリンを御者にして軽いので行くと言いつけた。エリザベスにもエヴァンズが明らかに何かを疑っているように見えていたが、その後すぐ、メイシーに夜会用のコートの話をはじめてごまかした。エヴァンズはそれ以上は言わず、おそらく何かを言い含めたコリンに全てを任せてエリザベスを送り出した。


 ミス・ジェキルはベルグラヴィア近くの居心地のよさそうなテラスハウスに下宿していた。コリンを外に待たせて中に入ると、そこには既にアンドルーが来ていた。ラシャが貼られた椅子に座って何か書き物をしていたアンドルーは、エリザベスの姿が見えるとすぐに立ち上がった。

「アンドルー」
ミス・ジェキルにいざなわれたエリザベスは部屋の中へ入り、アンドルーの頬にキスをした。アンドルーがエリザベスの顔を両手ではさむようにしてまじまじと見つめる。アンドルーが相手だと、自然にこういう風にできるのに……エリザベスは夫のことを思い出して悲しくなった。
「リジー。今日は少し顔色もよくなってるね。この間は本当に、君はどうかしてたよ」
アンドルーの隣の椅子をすすめられたエリザベスは頬を赤くした。

「わかってるけれど、私、今も普通じゃないわ。きっと」

 エリザベスがそう言うのを心配そうに見て、アンドルーは座ってペンに蓋をした。ミス・ジェキルもそばに座る。
「エリザベス。君が心配していたことだけど……ちょっと人を使って、昨日、マダム・ラロルシュを見張らせてみたんだ。彼女はリージェント・ストリートのはずれにある宿に出かけていった……実は、そこでロード・シルヴィらしき人物が出入りするのが見かけられてるんだ。けど、ロード・シルヴィは一人じゃないらしい。いつも他の紳士が一緒なんだって。ロード・シルヴィはどうやらそこにずっといるみたいだね。今日はどうかわからないけど、行ってみるかい?」

心臓がどきんと鳴った。エリザベスはうろたえながらも頷いた。彼らは一緒にいるのか……けど、二人だけではない?

「本当にいいの?」
アンドルーが心配しているのはわかる。もしそうだったら、全てはそこで終わるのだから。
「ええ。私は大丈夫だから、心配しないで」
本当に大丈夫だろうか。シルヴィに会っても落ち着いていられるだろうか。エリザベスは自分の言った言葉がむなしく聞こえるのがわかっていた。

 ミス・ジェキルの女優業の話を聞きながら三十分ほどお茶を楽しんだ後、三人は外へ出た。テラスハウスの外で待っていたコリンは退屈していたのだろう、建物から出てきたエリザベスの姿を見るとすぐ馬車から降りてきた。
「コリン、屋敷へお戻りなさい。私、これからお友達と三人で近くのサロンへ出かけることにしたの。この馬車には乗れないから辻馬車で行くわ」
「でも奥様……」
「エヴァンズには私が帰るように言ったからといえばいいのよ」
「でも奥様、僕は今日は奥様から離れてはいけないと……」
おそらくエヴァンズにきつく言い含められてきたのだろう、コリンがめずらしく食い下がった。
「大丈夫。お友達が一緒ですもの。この間、私を屋敷まで送ってきて下さった方なのよ」
エリザベスはそれ以上コリンには口をはさませなかった。コリンはエリザベスの後に続いて出てきたミス・ジェキルとアンドルーを怪訝そうな目で見ていたが、エリザベスに逆らえないと知って、渋々馬車を駆って屋敷へ戻っていった。

「彼は素行の悪い奥様の見張り?」
アンドルーがにやにやして言う。
「そうらしいわ。うちのとっても賢い執事の孫なの」
エリザベスの返事にミス・ジェキルが傍で笑った。
「行ってらっしゃい。何があっても、気をしっかり持ってね」
「ありがとう」

 ミス・ジェキルに見送られながら、エリザベスは辻馬車でアンドルーとリージェント・ストリートのそのキューズ・インという宿へ向かった。建物の近くに降り立つ前、アンドルーはもう一度、「本当にいいの?」と訊ねた。
エリザベスが声もなく頷いたその時、なんと宿の入り口からメアリー・ラロルシュと茶色い髪の男性、それにその後ろに間違いなくロード・シルヴィが出てきた。メアリー・ラロルシュは顔を隠すようなベールをつけているが、薄いガウンの内側にはこれから夜会へ出かけるかのようなドレスがのぞいていた。ロード・シルヴィともう一人の男性も夜会用らしき服を着ている。アンドルーは慌ててエリザベスを馬車の中へ押し込み、彼らが辻馬車を拾う様子を窺った。

「どうする? 今、つかまえる?」
アンドルーが訊ねたが、エリザベスはちょっと迷ってから首を振った。一体、これはどういうことなの?
「ついて行って、お願い。彼らが行くところへ」

エリザベスは無我夢中でそう言った。



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