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夜の庭 第三章 -16- |
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彼らが乗った辻馬車はグリーンパークの前を通り、チャリングクロスを抜けてブルームズベリーヘ出た。もしや……とエリザベスが思う間もなく馬車が止まったのは、先日、メアリー・ラロルシュに引かれるように来てしまったバタフライクラブの前だった。 エリザベスとアンドルーは言葉もなく顔を見合わせた。 ――どうしてここへ? シルヴィたちが馬車から降りるまで、アンドルーは自分たちの馬車を通りの角にとどまらせておいた。そして、彼らがクラブの建物の中に入っていくのを見届けた後、ようやくエリザベスを馬車から降ろした。 アンドルーは通りに降り立ったエリザベスにすぐ、薄いコートのフードをかぶせた。 「このクラブにはね、中で見かけた人間については他言しないという決まり事があるんだ。だけど、君はなるべく顔を見られないほうがいい」 どういうつもりかはわからないが、メアリー・ラロルシュも顔を隠すベールをつけていた。エリザベスは不安を隠せないまま声もなく頷いた。 建物の中に入ると、アンドルーはロビー付近のボードに張られた催し物の予定の張り紙を確認した。傍にぴったり寄り添うようにしてエリザベスもボードを眺める。それによると、このクラブでは部屋がいくつかに分かれていて、一階に大きなボールルーム、二階にプライベートコンサート用の部屋と談話用の小部屋がいくつかあることがわかった。たぶんこの間、自分が飛び込んでしまったところは一番大きなボールルームだったのだろう。今日も、奥のボールルームはプライベートコンサートのゲストたちを迎えるために貸切になっており、奥の半開きになった部屋から人々のざわめく声が聞こえた。 「これだねきっと……」 アンドルーが指し示したのは、ミハイル・ヴォシュコフというピアニストのプライベートコンサートの予定だった。今日はほぼ貸切状態なのだ。談話用の小部屋も予約が入っていない。 「ヴォシュコフって、知ってる人?」 「ロシア人のピアニストだよ。今年の春ごろロシアから来たみたいだね。フランスに行きたがってるってきいたけど、金がないんだな……特別なパトロンがいないからここでコンサートをやることにしたんだろう」 つまり、プライベートコンサートをやって、ブルジョアや貴族からお金を稼ぐためにコンサートを開いているわけだ。 「どうしたい? すぐ君の夫に会いたい? たぶんボールルームにいるとおもうけど」 アンドルーはエリザベスの様子を窺うように訊ねた。 「――ああ、いいえ。もう少し待って。せめてそのコンサートが終わってから……」 さっきも、この目で見た。ロード・シルヴィとメアリー・ラロルシュ。彼が自分に嘘をついていたことは紛れもない事実だ。けれど……心の中で、どこかに「そうではない」という声がしていた。だって……一緒にいたのは二人だけではない。エリザベスはすぐに決断できない自分をなさけなく思った。 「わかった」 アンドルーはあごに手をやって、少し考えるようだったが、エリザベスの手を取って廊下を進み、奥にあった階段をあがった。 「僕たちは部屋には入れない。招待客でもないし、金を払って席を買ったわけでもないからね。けど、貧乏芸術家には特別席が用意されてるんだ」 ボールルームの真上に演奏会を開く部屋がある。その脇に、出演者用の楽屋と、楽器や舞台装置、小道具を入れておく小部屋がいくつか続いている。アンドルーはまるで迷路のようなその一連の部屋にするすると入り込んだ。エリザベスは手を引かれてはいるものの、薄暗く静まり返ったその部屋を進んでいくのはなんとなく怖かった。今はまだ陽が落ちていないのでそれほどでもないが、暗くなったらいっそう不安がつのりそうな気がする。 「ほら。おいで」 部屋の隅に置かれた舞台の小道具だろうか、アンドルーに手を貸してもらって山になった階段を上がって降りると、板の間の上から張られた黒いカーテンの向こうに客席と舞台が見える。客席からは見えづらく、舞台はすぐそこだ。 「なかなかいい場所だろう? この板さえなければ特等席だよ」 アンドルーの笑顔がエリザベスをほっとさせた。 「リジー、君はここで少し待っておいで。僕はもう一度、下のボールルームへ行って、今日のゲストに誰が来ることになっているのか見てくる。多分、頼めば見せてもらえると思うんだ」 「アンドルー、ごめんなさい……いろいろ」 エリザベスは頷いてアンドルーの頬にキスした。 「馬鹿だね。謝ることなんてないんだよ。君は僕のかわいい妹なんだから」 アンドルーはそう言って、また元の通路をたどって下の部屋へ降りていった。 スコットランドヤードのプール警部補から、外務省経由でリージェント・ストリートへメッセージが届いたのは、バルフォア書店が火事になったすぐ後だった。亡くなった書店の店主はその日の昼、雇っている店員に二百ポンドの商談が舞い込んだと吹聴していた。また、シルヴィが尾行するように頼んだジャン・ロワンはその後、ランベスの宿に入るのが確認されており、ずっと見張られている状態だということだった。 「プール警部補はスコットランドヤードにしてはなかなかきちんと仕事をする人間のようですね」 サー・ヘンリーが言った。 「そうだな。ジャックはここには?」 「来ないと思います。彼もポーツマスに明日入るよう言われたそうですから。今ごろ大急ぎで荷造りしてるでしょう」 地中海での海賊の掃討作戦が始まろうとしていた。フランス側との調整がつき次第、すぐ作戦にかかれるよう待機するため、海軍はポーツマスから軍艦を十隻あまり出す予定だった。そのジャック・フィッシャーからの情報で、コールマンにも命令が出て、少なくともあさっての夜には同じようにポーツマスに入らねばならないので、ロンドンで誰かに会うなら今日しかないと言ってきた。おまけにジャックはその日のコールマンのプライベートまできちんと確認している。司令官ともなると、プライベートもなかなか秘密にはできない。コールマンは今夜、ミハイル・ヴォシュコフのコンサートへやってくる予定だった。メアリー・ラロルシュの言う裏切り者を探すなら、今日をはずすわけには行かない。 そういうわけで、リージェント・ストリートのキューズ・インからロード・シルヴィ、サー・ヘンリー、メアリー・ラロルシュの三人は辻馬車を拾って、バタフライクラブへやってきた。前日、コールマンの情報を聞いたメアリー・ラロルシュとサー・ヘンリーは正式なパトロンとして、クラブに無理矢理席を確保させていた。 クラブの建物に入った三人は奥のボールルームへ向かった。今日はプライベートコンサートのために貸切で、演奏が始まるまで飲み物が振舞われている。 「こんなに人を呼んでたなんて、びっくりだわ。おまけにブルジョワのお金持ちばかり……」 ボールルームの中は人でごった返していた。シルヴィの知る限りでも、メアリーの言うとおり、貴族はほとんどおらず、ミドルクラスの裕福な人間ばかりが目立つ。 「こんなにブルジョワに知り合いがいたと言うことのほうが驚きだ」 シルヴィがつぶやくと、メアリーがあきれたように言った。 「それはこのいかがわしいクラブのおかげよ」 三人はボールルームに入ると、目立たないように二手に分かれ、コールマンを探すことにした。一人になったシルヴィはその背の高さを生かして壁際を進みながらボールルームを見渡した。集まりの真ん中にいると逆に目立ちすぎるのだ。しばらく探してはみたものの、コールマンはまだ来ていないようだった。ゲストの一覧には名前が載っていたから、来ることは間違いないのだが。 そうしてふと、入り口に目をやったシルヴィは、見覚えのある顔に視線を奪われた。 ――アンドルー・ヒュ―イット。どうしてこんなところへ…… コンサートのゲストには名前がなかった。このクラブの会員なのか? さっき自分たちがやったように入り口でゲストの一覧を確認している。一体誰を……シルヴィがそう思うまもなく、アンドルーはボールルームを出て行った。上着のポケットから懐中時計を取り出して時間を見ると、六時三十分だった。開演まであと三十分ある。シルヴィはアンドルーが気にかかり、後を追ってボールルームを出た。 アンドルー・ヒュ―イットらしき人物は廊下の奥の階段を駆け上がった。何をそんなに急いでいるのだ。シルヴィは足音を立てないようにつま先だって階段を上がっていった。 |
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