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夜の庭   第三章   


                           -18-




 それは果てしなく続く長い時間のように思えた。自分が追いかけてきた人が今、目の前にいる。それなのに、自分は一歩もそこを動けない。何てひどいタイミング。


「エリザベス!」

恐ろしく低い声でシルヴィに呼ばれたエリザベスは、身体をびくっと震わせた。アンドルーはそれを見て、エリザベスの手を取り、小声で「大丈夫だから」とささやいた。

「どうか、彼女を怖がらせないでやってほしい。ロード・シルヴィ。僕たちは貴方が考えているような……」

言いかけたアンドルーをさえぎるように、階下で女性のものすごい悲鳴と、「泥棒!」と言う声が聞こえた。

何が起こったのかはわからなかった。シルヴィは一瞬考えるようなそぶりを見せ、その後すぐ、二人の方へやって来て、エリザベスの腕を取ってアンドルーから引き離した。

「彼女に乱暴しないでくれ!」

アンドルーは叫んだが、シルヴィは非常に強い力でエリザベスの腕を振り回し、自分の後ろへ追いやった。
「彼女は私の妻だ。私がどうしようと、君には関係ない。アンドルー・ヒューイット。まさか、こんなところで会おうとは……」

それからすぐ、「スコットランドヤードだ! 動くな!」という大声がした。一体、階下で何が……そこにいた三人ともが自分たちの状況より階下を気にしていた。

「この話は必ず決着をつける。首を洗って待っていたまえ」

 シルヴィは冷たくそう言い放った。アンドルーは一つ大きなため息をつき、エリザベスに「大丈夫。君を愛してる」と言って二人に背を向けて部屋を出て行った。


――アンドルー。私のせいでこんなことになるなんて……シルヴィはひどく怒っている。薄いブルーグレーの瞳が、本当に冷たいグレーになって、自分をにらんでいる。エリザベスはまたぶるっと身を震わせた。

「あの男と、こんなところで何を……」

シルヴィの問いを遮ったのは、どーんという大きな爆発音だった。

一瞬、床が浮き上がり、空気がひずんで、衝撃が二人の身体を揺らした。

頭の上から木箱が落ちてくる。脇に立てかけてあった張りぼての壁もばらばらと倒れてきた。シルヴィはエリザベスの身体を守るように上になってかがんだ。

気づくと、重ねて積み上げられていたものは全て下に落ち、エリザベスを身体でかばっていたシルヴィは、小声でうなりながら頭を抱えていた。嫌な予感……エリザベスが思うまもなく、きなくさい匂いが立ち始め、うっすらと黒い煙が床から上がってくるのが見えた。

「火事だ!」
誰かが階下で叫んだ。

「ロード・シルヴィ?」

 エリザベスが呼びかけてもシルヴィは返事をしなかった。彼は頭を抑えながら周りに積み重なった箱や壁をよけて立ち上がろうとしていた。ようやく立ち上がれる状態になった時には、床の端から火があがっていた。早く逃げなければ。部屋の一番近い扉からはもくもくと煙が上がっている。反対側の扉も見たが、同じように廊下に続いているその扉からもかなりの勢いで煙が上がっていた。廊下にはもう煙がいっぱいなのだ。

もしかして、このままここで……エリザベスは気が遠くなるような気がした。しかし、シルヴィは「向こうだ」と叫んで、まだ明るいバルコニーの窓を指した。荷物が散乱してなかなか先に進めない。そうこうするうちにも煙が部屋にたまってくる。熱い……息が苦しい。エリザベスは咳き込んで呼吸ができなくなった。

「しっかりするんだ」

シルヴィはエリザベスの身体を抱くようにしてがらくたの山を越え、何とかバルコニーの前まで来た。窓は鍵がかけられて固く閉められており、どうしても開く気配がない。シルヴィは仕方なく散乱した荷物のなかから、長い棒を持ってきて窓を叩き割った。新鮮な空気が入り込み、一方で部屋の中に充満していた煙が外へ出く。そのすぐ後、廊下側の扉がありえない形で大きく膨れ上がったかと思うと、バーンと言う音と共に破裂し、炎が部屋の中を襲った。


シルヴィはエリザベスを抱えてバルコニーに出た。恐ろしい熱さと煙から逃れたのは幸いだったが、バルコニーの下はこの建物の中庭に引かれている川の深いたまりになっていた。

まさか、ここへ飛び込もうとしている? エリザベスはシルヴィに「……私、泳げない」と首をふった。

「飛び込んで! 飛び込むのよ!」

階下の庭から女性の大声がした。メアリー・ラロルシュだった。大勢の人間がその後ろを逃げていく。人のことなど気にしているものなどいなかった。とにかく自分が逃げるだけで精一杯なのだ。

シルヴィはエリザベスの言葉に躊躇していたが、バルコニーの低い手すりを足で蹴り落とした。

そして、「息を止めて」とひとこと言うと、エリザベスを脇に抱えて下に飛び降りた。




夜の庭 第三章 - 完 -

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