バナー


夜の庭   第三章   


                           -3-




  「いざ」
 
 差し出された腕に恐る恐る自分の手を出したエリザベスは、うれしいような、悲しいような複雑な気分だった。彼に触れるのは結婚式のあの日以来。いったい自分は本当に結婚などしたのだろうか? さっきもキスされると思ったのに、そうしなかった。

けれど、これは……

エリザベスはいざなわれた馬車の中で、大きなダイアモンドがたくさんついたその重みにそっと触れた。こんな高価なものを……

もし彼が少しでも自分のことを気にかけてくれているのだとしたら、私にはまだ望みがあるだろうか? さっきシルヴィに見つめられた時は、心臓が口から飛び出そうだった。

――本当に私って馬鹿みたいだわ。自分のだんな様にこんなに恋焦がれているのよ。自分のだんな様に!

エリザベスは隣に座ったシルヴィのぬくもりを少し感じながら、ため息をつきそうになるのをまたこらえた。


 アーガイル公爵の屋敷前にはすでに何台か馬車が止まっていた。シルヴィは小さな食事会だと言っていたが、そこへやってきている人間は新聞で見たことのある顔ばかりだ。
「こんばんは、ジョージ、ジョン」
シルヴィはジョージ・キャンベル、アーガイル公とその後継者となったローン候、ジョンの二人に挨拶した。
「ようこそ我が家へ。こちらが君の花嫁か。噂には聞いていたが、これは美しい。アレクサンドラ妃の向こうを張るな」
同じ年代のローン候が満面の笑みでエリザベスの手にキスした。
「はじめまして」
 ジョンは自分の妻に紹介すると言って、エリザベスをいざなった。ジョンの妻、ルイーズは女王の娘である。しかし、シルヴィは「では私は所用を先に済ませてきます」と言って、エリザベスを一人置いてどこかに行ってしまった。ローン候はシルヴィのそういう振る舞いに慣れているのか、何も言わない。ただ苦笑いしているだけだ。エリザベスは不安に駆られながらもローン候についていくしかなかった。


「あなたはローウェル伯爵の一人娘だそうだね。ローウェルの最後を看取ったとか」
 赤い絨毯の敷かれた重厚な廊下を歩きながらローン侯爵が訊ねた。知らない人間に父のことを尋ねられるのは慣れている。自分はロンドンにはこれまであまり来たことはなかったけれど、父はロンドンでは顔が広かったのだ。
「はい。でももう喪もあけましたから」
「そうか。故郷を離れるのはさぞつらかっただろう。ピアソンがとても心配していてね。あなたを預けるのはどうしても、信頼できる人間でなければと言ってね。まさかシルヴィに白羽の矢が立つとは思わなかったがね。あの男は頭も切れるし、皇太子殿下にも信頼が篤い。だが、前の妻のダイアナが亡くなってからはいろいろな女性と浮き名を流して……しようのない奴だが、許してやってほしい」
ローン候は静かな笑みをたたえて言った。それはあの噂のことを言っているのだろうか。パリで女性と一緒にいたとかいう噂。ここに来ている人たちにもすっかり知られているに違いない。エリザベスは小さく微笑を返すのが精一杯だった。

「ピアソン卿は今日は?」
「彼は今フランスにいるのでは? シルヴィの入れ替わりだと思うが。新婚だというのにひと月も家を空けさせてすまなかった。枢密院で決めたことだったのだ。しかし、彼でなければできない仕事がたくさんあるのだよ。これからもそういうことは度々あるだろうが、君はそれをよくわかってやって欲しい」

「ああら。殿方は勝手なことばかり。新婚早々、ハネムーンもなしに家を空けるなんて、非常識もはなはだしい」
大きな黒い羽の扇子をぱたぱたさせながら、美しい女性がやってきた。
「ルイーズ。私の妻だ」
この方が女王の娘……ローン候がエリザベスにルイーズを紹介し、エリザベスも挨拶をした。そこまでが済むと、ローン候はエリザベスを妻に預けて別の客のところへ行ってしまった。

「まったく殿方と言うのは仕方がないわね。いつでも仕事が最優先。それがお国のためだと言えばなんでも通ると思っているんですよ。それであなたの夫はいったいどちらへ?」
エリザベスは周りを見回したが、シルヴィの姿はなかった。
「さぁ、どこへ行ってしまったんでしょう。所用を先にすませてくると言っていました」
「いいこと? たとえ仕事と言えども、新婚の花嫁をひとりで放っておくなんてありえない話だわ。あなた。必ず自分の目の届くところにシルヴィを置いておかなければだめよ。彼はいい年だけれど、女性が絶対に放っておかない類の殿方ですよ。それに……」
ルイーズの視線がエリザベスを頭のてっぺんからつま先まで二往復した。

「あなたもよ。一人でいたら、ろくなことにならないわ」


 エリザベスはルイーズにつれられて、部屋にいた女性の何人かとその連れに紹介された。エリザベスがシルヴィの妻だと知ると、皆一様に「まぁ、あのシルヴィの!」と言うのだ。確かに。結婚して一ヶ月もして、それも夫ではなく、ホストの家の女性からシルヴィの妻だと紹介されたら、一体どういうことかと思うだろう。エリザベスはまたため息をつきそうになるのをなんとか我慢して、おかしな顔にならないように微笑を浮かべた。


 目次へ