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夜の庭   第四章   


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 自分の部屋へ戻って着替えをすませた後、エリザベスは窓からぼんやりと真っ暗な庭を眺めていた。遅い夜。静かで真っ暗な庭。耳を澄ませても庭からは何も聞こえない。まるで呼吸をしていない。ローウェルの庭は夜、こんなに真っ暗で静まり返ってはいなかった。庭の木々から立ち昇る草いきれのようなゆるやかな風が舞って、始終ざわついていた。どんなに疲れていてもそれに触れれば疲れは癒されるようだった。けれど、ここは……

――ただ暗く、静かなだけ。

エリザベスの頬に涙が伝った。どうしてこんなことに……アンドルーは無事に逃げられたのだろうか。



「あの男がそんなに恋しいか。いっそ、あのまま私の目の前から逃げれば良かったのだ」

エリザベスが振り返ると、そこに冷たい表情のシルヴィがいた。
「――サウスハンプトンへ行ったのではなかったのか」
エリザベスは馬車に乗っているときからずっと口を閉ざしていたが、まるで自分だけが悪いように言われるのが悔しかった。
「あなたこそ、フランスへ行かれたのではなかったのですか」
その返事にシルヴィはむっとしたが、「遊んでいるのではない。仕事だ」と静かに答えた。

エリザベスはそれ以上は言わなかった。もうどうでもいい。疲れすぎていて良くわからなくなってしまった。

「どうして、あの男と一緒にいたのだ。それもあんなところに……私に隠れて、ずっと通じていたのか」

――どうして? どうして、と私に問うの? エリザベスは唇をかんだ。そんなこと口に出来るわけがない。

「あなたには関係のないことですわ。あなたも好きになさるのですから、私がどこへ行こうと、お構いになりませんよう」

シルヴィはこの言葉にかっとして猛然とエリザベスの方へ歩み寄った。そして腕を乱暴に掴んで言った。
「君は私の妻だ。この屋敷では私の言うことに従ってもらうし、妻としての役目は果たしてもらう」
エリザベスはシルヴィを睨み返したが、口を結んだまま何も言わなかった。
「君がどんな態度を取ろうが、事実は変わらない。来なさい」

抵抗するエリザベスを引きずるようにして、シルヴィはエリザベスを自分の寝室へ連れて行こうとした。エリザベスはシルヴィのところへは行きたくなかった。彼は私のことを愛しているわけではない。義理で夫になっただけ。それなのに、彼がしようとしていることは何? 自分が夫だと言うことを見せ付けたいだけだわ。

はじめはそれでもいいと思っていた。愛が無くてもそばにいられるのなら、それでもいいと。けれど……その状況がどんなにつらいものか、自分は身をもって知った。こんなに近くにいるのに、愛が感じられないことがどんなにつらいことか。


 エリザベスはシルヴィから逃げ出そうとして激しく抵抗した。羽織っていた薄いガウンをつかんだシルヴィはそれを手繰り寄せようとし、エリザベスが暴れたので、ガウンはびりびりと引き裂かれた。エリザベスは何とか腕をすり抜けようとしたが、身体の大きなシルヴィにかなうわけもなく、ついにシルヴィに捉えられた。そして肩に担がれるようにしてシルヴィの寝室に連れて行かれ、ベッドに放り出された。

 シルヴィはすぐにエリザベスの身体の上に馬乗りになった。身体の自由を奪ってエリザベスの右腕を取り、その薬指にはまった指輪をまじまじと見た。ゆるくもなく、きつくもなくちょうどいい具合にはまっている。シルヴィはそれを苦もなく引き抜いた。

――どうしてそれを……!

ちいさな銀のつぶが、薄暗い部屋にきらきらと弧を描いて窓の外へ放り投げられた。

「もっと早くにこうするべきだった」
勝ち誇ったようにシルヴィは言った。

――あの時からずっと大事にしていた指輪。まさか、彼に捨てられてしまうなんて……シルヴィは誰からもらったのか気にしているのではない。自分が他人からもらったものをつけているのが気に入らないだけだ。私が愛した人はもういなくなってしまった……エリザベスの目から涙が零れ落ちた。

「遅かれ早かれ私はアンドルーと決闘することになるだろう」

シルヴィはエリザベスの破れたガウンをはずしながら言った。エリザベスは決闘と聞いて身体が震えた。やはり……やはりそういうことだった……もちろん決闘などずっと以前から禁じられている。しかし、こういう場合には、どちらか決着をつけるために当たり前のように行われるのだ。「首を洗って待っていろ」とシルヴィは言った。そんなことさせられない……エリザベスはシルヴィに言った。

「お願いです。こんなくだらないことに命を賭けるのはやめてください。どうして私のことで決闘などするのです。愛してもいないのに……死んだら無駄死ですわ」
「愛していない? 愛していないだと?」
シルヴィの顔がひきつった。
「愛していないのは君の方も同じだろう? もちろんこの結婚にははじめから努力が必要だった。私は君にひと月の猶予を与えた。あの男が本当に恋しいなら、逃げ出せばよかったのだ。私が君に手をつける前に。しかし、君は逃げださなかった。ダイアナが死んでから、いろいろな女性と付き合ったが、これほどまでに見事にだまされるとは思わなかった。このロンドンで、友達も居ないのによくひと月も一人で過ごせたものだな。だが結局、私の財産と恋人の両方が欲しくなったということか」

――すっかりだまされた

だまされたと、彼は考えているのだ。私がだましたと。愛してもいないのに彼と結婚したと。つまり、行くところがなかったから。あるいは財産目当てで。

エリザベスはシルヴィに馬乗りになられたまま手で顔を覆った。もうどうにもできない。彼は私を愛していない。一体何を期待していたというのだろう。

「決闘で私が死んだらどうにでもすればいい、しかし今、君は私の妻だ。誰にも渡さない」
エリザベスの耳元でシルヴィはささやいた。顔を覆っていた腕をよけ、下に着ていたものも全て取り去った。

エリザベスはシルヴィの下でもう抵抗しなかった。どうしても自分が何者かわからせたいならそうすればいい。もともとそうなるはずだったのだし。

シルヴィの唇が冷たいエリザベスのうなじにつけられた時、エリザベスは自分の目からまた涙がこぼれるのを感じた。



 シルヴィはエリザベスにひどいことをするつもりはなかった。自分の妻になった理由はどうあれ、彼女に自分の方を振り向いてほしいと思っていたし、本当の愛を交わしたいと思っていた。

 彼女が自分の前に再び現れる前までは、こんな風に思うのははじめに愛を誓ったダイアナ以外の人間ではありえなかった。彼女はただ天真爛漫で美しかった。自分は彼女を得るべくして得たし、何の疑問ももたなかった。おそらくこの先はダイアナのような存在はありえないとさえ思っていたのだ。だから彼女がいなくなった後、あの恐ろしい仕事にも命をかけてきたし、一方で寂しさを紛らわすためにいろいろな女性と遊びもした。

 しかしエリザベスはその間違った決心のようなものをことごとく壊していった。

 一見おとなしくみえるのに、エリザベスは自分の気持ちをかき乱さずにはいない。時折見せる恐ろしいほどの頭のよさと、固い自分の信念。自分はあっという間に彼女の虜になっていた。本当はそうだと認めたくなかっただけだ。この自分が、シルヴィ・グロブナーが、女性に本当に心を奪われるなど……! それなのに、現われたあの男。エリザベスが口にもしないあの男の存在がどうしても気にかかった。自分には見せない笑顔もあの男には見せるのだと思うと、我も忘れて嫉妬に狂いそうだった。だから、仕事にかまけるふりをしながら、一方では、自分が彼女に深入りしないうちに、本当に彼女が自分のことを夫として考えられるのか、ずっと確かめようとしていた。彼女が自分にすがって屋敷にいて欲しいというのが見たかった。

 この美しさと賢さは、天が二物を与えたのだとシルヴィは思った。この自分の下に組み敷いた真珠のようなすべらかな肌。香水さえつけていないようなのに、ほのかに花が香るこのうなじ。とても庭仕事を得意にしているようには見えない細い腕。そして細い身体に似合わず案外豊かな白い胸。

 どうしてもっと早くに気づかなかったのだ。自分は彼女をどうしても手に入れたかった。自分だけのものにしたかった。だからなおさらピアソンや皇太子に言われて結婚したと思われるのは嫌だったし、あの指輪にキスした男をどうしても許すことが出来なかった。一度ならず、二度までも。自分の前でまるで恋人のように見つめ合った二人……

許さない。彼女は自分のものだ。もう誰にも渡さない。今すぐ他の男など忘れさせてやる。

 シルヴィはエリザベスがその時恐れていたほど乱暴なことはしなかった。むしろ長い時間をかけて全身をくまなく愛撫したが、自分が我慢できなくなって、とうとうエリザベスのひざを広げさせた。それまでぐったりしていたエリザベスは、何が起こるのかわからない恐ろしさに身を固くした。シルヴィは中に入ろうとして、なかなかうまくいかず、いらいらするようだったが、そのときだけは非情になり、嫌がるエリザベスを押さえつけた。何度目かにようやく自分をエリザベスの中におさめたシルヴィは、彼女が本当に処女だったことを知った。

では、あいつとはただ心の中だけで結ばれていたというのか?

それを考えるとますます面白くなかった。シルヴィは細い悲鳴のような声を聞きながら、エリザベスを責めた。

 全てが終わると、シルヴィは後ろからやさしくエリザベスの身体を抱いてささやいた。
「君はこれからずっとここで眠る。私の腕の中でだ。もう君の部屋で眠ることは許さない」



 エリザベスはあまりにも疲れすぎていて返事もできなかった。夫婦になるということはこういうことだったのだ。世界が終わるかと思うほどの苦痛。子供ができるときはこれ以上の苦しみだろうか。その時はきっと、本当に世界が終わってしまうに違いない。エリザベスは涙も拭かずに眠りに落ちた。



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