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夜の庭 第四章 -3- |
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朝方、二人が眠る寝室のドアの向こうでエヴァンズが主人を呼ぶ声が聞こえた。 「だんな様……だんな様。すみません、こんな早くに。お客様がお見えです」 シルヴィは馬の鳴き声が玄関先で止まったのに気づいており、すでに目を覚ましていた。腕の中のエリザベスが気づいて振り返ろうとしたのを「しっ」と言って止めた。「君が起きることはない。寝ていなさい」シルヴィはエリザベスの額にキスして寝床を出ていった。 ホールには男が一人。シルヴィがもっとも予想していなかった人物だった。 「アンドルー・ヒューイット。そちらの方からやってくるとは」 「おはようございます。ロード・シルヴィ。きっとあなたは私に決闘を申し込むつもりだろうが、その前にどうしても、彼女の名誉のために……エリザベスの名誉のために、申し上げておかねばならないことがあってきました」 シルヴィは寝巻きの上にガウンを羽織っただけである。腕組みをして自分の妻をたぶらかした男をにらみつけていた。 「私の妻の名誉のため? 妻の名誉のために何を言うと言うのだ。妻の名誉は夫である私が守る」 アンドルーはそれを聞いてちょっと微笑んだ。 「――もしかすると、私が心配するほどのことはなかったのかもしれないが」 「それで、こんな早くに一体何用か。私に見つけ出される前に果たし状を持ってきたのか?」 アンドルーは苦笑いした。しかしまた改まってシルヴィに言った。 「やはり……エリザベスはきっと誤解を解けていないだろうと思ったのです。あなたにだけは言いたいことが言えないようだから……僕が代わりにそれを言いに来ました」 「夫の私に言わないことを、代わりに言うだと?」 「あなたの妻は、あなたを愛していたのです。もうずっと昔から……」 シルヴィはまるで不意をつかれたように一瞬言葉をうしなった。 「――何を言うかと思えば……決闘で死ぬのが怖くなったか」 「あなたはエリザベスのことを全くわかっていない。私はなんと言われようとかまわない。その覚悟でここにきたのです。けれどエリザベスは、彼女は、ただあなたを愛しているだけだ。それなのに、あなたの仕打ちはあまりにもひどいじゃないか」 「知ったようなことを……」 シルヴィはせせら笑った。 「いいですか。エリザベスは十六のころからあなたに恋焦がれていたんですよ。そんな話は聞いていないだろうと思うが……あなたは十六の時の彼女を覚えていますか?」 アンドルーは夢見るように話を続けた。 「彼女は美しかった。小さいころから。それに聡明で。サウスハンプトンでは彼女が社交界にデビューするのを待っていた男が何人もいました。それなのに、彼女の心を奪ったのはあなただった。けど、そのときあなたは結婚が決まっていた」 そんな話は聞いたこともなかった。たとえそうだったとしても、あのエリザベスが言うわけが無いが。いや、そういえば一度……私だったから結婚したとか……シルヴィの頭の中がぐるぐる回り始めた。 「エリザベスがつけている銀の指輪。あれに心当たりはないですか? あの指輪は、あなたがサウスハンプトンで、あなたの当時の婚約者に贈ろうとしたものではなかったですか? エリザベスはあなたがあの指輪を気に入っていたのを知っていました。あなたの婚約者が別の指輪を選んだから、あなたはそれに従った。エリザベスは残ったあの指輪を父親に買ってもらって、あなたのことをずっと想い続けてきたのです」 この話が本当なら――シルヴィは胸をつかれたような気がした。昨日、エリザベスから取り上げて、窓から放り投げたあの指輪。どうりで見覚えがあるはずだ。 「ならばどうして……どうしてそう言ってくれなかったのだ? 彼女は夫の私ではなく、なぜ君に……」 「ロード・シルヴィ。私も彼女を愛しています。でもそれは兄妹のような愛だ。私たちは……ジョンと私とアリソンとエリザベスは、ずっと一緒にいたから。あなたは彼女を責める資格などない。結婚してすぐ、ひと月も家を空け、やっと戻ってきたと思えば、すぐにまた出て行き、ラロルシュ伯爵夫人とは人目につくところで会い。エリザベスがどんな思いであなたを待っていたと思います? 彼女は私が友人と屋敷を訪ねるのさえ許さなかったのですよ」 シルヴィは言葉を失った。 「彼女は、あなたとマダム・ラロルシュがコベントガーデンの古書店に入っていくのを見たと言っていました。あなたはその前の晩、エリザベスにフランスに行くといって出かけたそうじゃないですか。あなたがここへ戻る前から、エリザベスはロンドンの口さがない人たちのあざけりの的になっていた。貧乏で行き場所のなくなった女貴族が、身の程知らずにもあなたのような身分の高い人と結婚して、結局放って置かれていると。彼女は僕にはひとことも言わなかったが、僕はいろいろなところで、彼女が噂になっているの聞いていました。もちろん、彼女も知っていたでしょう。彼女はあなたから何も望んでいなかった。ただ近くにいたかっただけだ。けれど、そばにいても何の愛情も感じられないなら、いない方が良かったと彼女は言っていました。あの屋敷で一人でいるのは耐えられないと。あなたもいない。大好きな庭仕事も出来ない。あそこでは。だから彼女は僕に助けを求めたんです。その……あなたが本当にマダム・ラロルシュと深い間柄なのか、知りたいと……本当にそうなら、サウスハンプトンで買った家に戻るつもりだと。もちろん、僕も知りたかった。エリザベスがあまりにもかわいそうだったから」 アンドルーは美しいと言うのがぴったりの男だった。この繊細そうな男がこんなことを言うなんて。 「だから僕はエリザベスに協力することにした。マダム・ラロルシュの跡をつけさせて、あなたと二人で会っているのかどうか調べようとしました。それが昨日の結果です」 「私は……正直言って彼女を疑っていた。君とのことだ。人の噂もあった」 シルヴィは首を振りながら苦しそうに言った。そうだ。心の底で、彼女が自分のものでないのではないかと、常に疑わずにはいられなかった。 「そうだろうと思っていました。その噂は私たちが若かったときに、エリザベスがそう噂が立つように仕向けたのです。そうすれば、しばらくの間は誰にも結婚のことをせかされなくてすむから。私たちにはそれぞれ事情があった。エリザベスは父親が自分の手元から、どうしても離そうとしなかったし、もっと大きな問題は、僕の出生に関する噂が出始めたことでした」 「君の出生?」 アンドルーは頷いた。 「父も母も、そしてローウェル伯も、誰も真実を語らずに逝ってしまったが、僕はブライアン・ヒューイットの息子ではなく、おそらくジョージ・ローウェルの息子です。僕の母は妊娠がわかってからブライアン、つまり亡くなった僕の父と結婚した」 その時、シルヴィははたと気づいた。そういえば、アンドルーはローウェルにどことなく似ている。髪はプラチナブロンドだったし目の色もブルー。右肩が少し下がるその立ち姿もまるで同じだ。 「エリザベスと僕は相前後して生まれました。僕の方が少し早かったが」 そのいつも微笑んでいるような顔が確かに似ている。 「つまり君たちは兄妹だと……」 「証拠は何もありません。けど、何年か前、そういう噂が出始めたのです。ローウェルはずっとエリザベスの縁談を断り続けていたし、かといって僕と……ずっと一緒にいた僕と結婚させる気も毛頭なかった。たぶん、使用人のだれかが気づいたんでしょう。人に話せないことを、エリザベスがそうすることでかぶってくれたのです」 ホールの天井が回るような気がした。シルヴィは大きくため息をついて頭を抱えた。 ――一体、自分はエリザベスになんとひどいことをしたのだ。 しばらく間をおいて、シルヴィはようやく言った。 「すまないが、今日は帰ってもらえないか。君の話はわかった。私はこれから彼女と話し合う必要がある」 |
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