バナー


夜の庭   第四章   


                           -4-



 
――シルヴィ。私の夫。まるで本当に愛しているかのように振舞えるのね。

エリザベスはシルヴィが自分の額にキスして出て行ったのを皮肉に思った。それが本当だったら……と何度も思った。でもあなたの心は私のところにはない。

エリザベスはシルヴィのベッドを出て自分の部屋へ戻った。シルヴィは鍵をかけるのを忘れていた。まさか、あんなことがあった後で、逃げ出すとは思っていないのかもしれない。

 自分の部屋に戻ったエリザベスは、大急ぎで服を着て、薄いコートを羽織り、部屋の扉をこっそり開け、廊下に誰もいないのを確認すると、音を立てないように裏の階段を下りた。声のする表の方からは出て行けない。食堂の脇にある控えの部屋から階下のキッチンへ降りるところに、ジェイン・ゴアがいつも使っている通用口がある。エリザベスはそこを抜けて外へ出た。誰にも気づかれずに外に出るなんて、タイミングさえ合えば、意外と簡単なものだ。もしかしたら、もうここには戻って来れないかもしれない。けれど、今はどうしても行かなければ。アンドルーになんとか決闘から逃れてもらうために。

エリザベスは、まだ朝早くて誰もいない表の門を、すり抜けるように出て行った。



 表の通りを二筋ほど通り越したところでエリザベスはようやく辻馬車を拾った。まだ早いから人通りも少ない。アンドルーの下宿のあるグリニッジについたとき、エリザベスはほっと胸をなでおろした。たぶんシルヴィはまだ気づいていないか、アンドルーの居所を探しているところだ。シルヴィより先に会って、とりあえずどこかへ逃げてもらわなければ。シルヴィの気が治まるまで。彼がアンドルーと殺し合いをしようなどと思わなくなるまで。エリザベスは下宿の建物の一階のドアをたたいた。

「こんな早くにどなたでしょうか?」

アンドルーから聞いてはいたが、下宿の管理人のミセス・パーカーは気のいい婦人だった。エリザベスがアンドルーの名を告げると、ミセス・パーカーはアンドルーは昨日の夜から帰っていないと教えてくれた。
「ヒューイットさんが夜明かしするのも珍しいですわね。よかったらうちの居間でお待ちになります?」

 エリザベスはこのありがたい申し出にちょっと迷って、手紙をそこで書かせてほしいと言った。ミセス・パーカーは快くエリザベスを家の中へ招き入れ、暖かいお茶を振舞ってくれた。小さな居間の机の上で、エリザベスはアンドルーへの手紙をしたため、ミセス・パーカーにアンドルーが帰ってきたら渡して欲しいと頼んだ。そして振舞われたお茶の礼を言ってアンドルーの下宿を出た。

これからどうしよう……エリザベスは誰も居ない朝の通りを一ブロックゆっくり歩いて、結局、メイフェアの屋敷に戻るのをやめた。そろそろ自分がいなくなったのに気づいているだろうか。でも、このまま私が居なくなっても、あなたはちっとも困らない。エリザベスは思わず自分の頬を涙がぽとりと伝ったのを感じて、それをぬぐった。そしてやってきた辻馬車を拾って、ストランドの部屋へ向かった。



 アンドルーを帰らせた後、シルヴィは半ば呆然としながら階段を上がり、自分の寝室へ戻った。しかしベッドはもぬけの殻だった。
「エリザベス! エリザベス!」
シルヴィは寝室で大声を上げたが、返事はない。エヴァンズが慌ててやってきて、廊下で待っていた。
「エヴァンズ! 妻を見なかったか?」
「いいえ、だんな様」
シルヴィは答えを聞きながら寝室を出て、エリザベスの部屋へずかずかとはいっていった。
「エリザベス!! リジー!?」
部屋の奥の小さなベッドにもエリザベスの姿はなかった。しかし、エリザベスが脱いでいったシルクの寝巻きと、昨日、シルヴィがずたずたにした薄いガウンがベッドのうえに置かれていた。まさか....

「エヴァンズ!!」
廊下で控えているエヴァンズをシルヴィは大声で呼び、家中を探させた。狭い屋敷の中、探すほどのところはない。どこにも見当たらないとエヴァンズが告げるとシルヴィは頭を抱えた。
「エリザベスは……出て行ったのだ……ああ、何と愚かな……」
「出て行った? 奥様がですか?」

シルヴィは頭をめぐらせてエリザベスが行くところはどこだろうかと考えた。おそらくアンドルーのところ……彼と決闘すると言ったからだ。
「アンドルー・ヒューイットはグリニッジに住んでいると言ったか」
「はい。だんな様。しかし、奥様とヒューイット様の間には、だんな様が心配されるようなことはありません」
珍しくエヴァンズがシルヴィに反論した。
「おまえまで! 自分の調べたことにそんなに自信があるのか」
「いえ、そういうわけでは……しかし、奥様が本当に心にとめられているのはだんな様ですから」
シルヴィはエヴァンズをにらみつけた。自分が知らなかったことをエヴァンズが知っていると思うと面白くなかった。
「でかける。ヒューイットのところだ」
「ですがだんな様……」
エヴァンズが心配そうに主人を見た。
「決闘しに行くわけではない。わかっている。ヒューイットはエリザベスの兄なのだ。だが、ここを出たとなれば行くところは他にない」



 目次へ