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夜の庭   第四章   


                           -6-




 屋敷に帰る前に、シルヴィはストランドのその建物の住人に頼んで警察を呼んでこさせ、部屋に誰も入れないように封鎖させた。ジャン・ロワンは間違いなくあそこに現れた。もし、地図があの棚にあったのなら、既に持っていかれただろう。おまけにエリザベスまでこんな目にあわせて。全て自分の失態だ……

 メイフェアの屋敷へ連れて帰られたエリザベスは、かかりつけの医者であるドクター・ブリッジスが診察した。額の傷を少し縫ったが、エリザベスは意識を失ったままで、ブリッジスはこのまま意識が戻るのを待つしかないと言った。


 それから一日たったが、エリザベスは目を開けなかった。シルヴィはエリザベスの小さなベッドの脇に書斎から自分用の大きな椅子を持ってこさせ、ずっとそばについていた。途中、外務省から使いが来て、出仕するようにと言ってきたが、シルヴィは事情を託した手紙を使いに持たせてエリザベスのそばを離れなかった。また、同じようにエリザベスを心配しているアンドルーも再びやってきたが、エリザベスがずっと眠っているのを見て顔を曇らせたまま帰っていった。

 その夜、シルヴィがエリザベスの横でうとうとし始めたとき、シルヴィは「ロード・シルヴィ……」というエリザベスの小さな声を聞いた。はじめは耳を疑ったが、確かにエリザベスの声だった。シルヴィは思わずエリザベスに呼びかけたが、エリザベスはやはり眠ったままだった。

彼女は、ロード・シルヴィと言った。シルヴィではなく。そうだ。彼女は私のことを一度もシルヴィとは呼んでいない。結婚してからも、マイ・ロードと。シルヴィは思わず、サウスハンプトンにいた時からはやせ細ったように見えるエリザベスの腕を取った。私が君を疑っていたから、君は私を本当に愛することができなかった。

彼女はあなたをずっと愛していたのですよ……

アンドルーの声が頭の中でこだました。おろかな自分。夢の中で君が会っているのは、ずっと昔の私か? その白い指にキスをしながらシルヴィはそのまま眠ってしまった。





 翌日の朝早く、エリザベスは二日ぶりに目を覚ました。はじめは自分がどこにいるのか良くわからなかった。ベッドにいるのにまだめまいがひどかったし、傍で手を握りながらベッドに伏して眠っているのがシルヴィだとも気づかなかった。とにかくのどが渇いていて、声が出せない。エリザベスが冷たくなった自分の手を動かそうとしたとき、なぜかその片方だけがなんだか暖かいのを感じた。シルヴィが自分の大きな手でそれを握っていたからである。

何分か経って少し視界がはっきりしてくると、手を握っているシルヴィの顔がはっきり見えた。彼の寝顔をこんなに間近で見るのは何日ぶりだろう。鼻筋の通ったハンサムな顔の眉間には、若かった昔に比べると少ししわがよっているようだったが、それがまた男性としての渋みをひきたたせている。ロンドンの貴族たちの社交場で、結婚してもなお、シルヴィはいつも女性たちの注目の的だった。あたりまえだわ。彼と話をすれば、彼がどんなに頭が良くて魅力的かよくわかる。彼に惹かれない女性なんていない。エリザベスはおかしくなった。

一体自分はどうしてしまったのだろう。この間から、一体何があった? 彼に誤解を受けて、あんなことをされたのに。いくら彼が私の夫になったからって、あんな風に……それを考えただけでも、身体が熱くなりそうだった。そこでエリザベスがふと指を動かしたので、シルヴィがはっとして目覚めてしまった。

「リジー!」
シルヴィはベッドの上のエリザベスをいとおしげに抱きしめた。
「ああ、エリザベス。良かった……もう目を覚まさないかと思った」

エリザベスはシルヴィに抱きかかえられたまま声を出そうとしたが、のどが全く渇いてしまっていて声が出ない。シルヴィはその唇の動きを読んで、エリザベスが水が欲しいのだと知ると、そばにあった水差しから水を飲ませた。

生き返った。とエリザベスは思った。動くとひどいめまいを感じたが、じっとしていればそれほどでもない。エリザベスはシルヴィの腕を頼りにベッドの上に起こしてもらおうとした。しかし、頭がぐらっとして崩れ落ちそうになり、まだ起き上がれるほど回復していないことを知った。シルヴィはエリザベスを再び横にならせ、ゴードンに医者を呼びに行かせた。

 シルヴィの手がエリザベスの額をそっと撫でた。エリザベスはそれで始めて自分の額に包帯が巻かれていることを知った。そして、その後に小さな痛みがやってきた。めまいはこのせいだろうか。
「ああ。痛かったか?」エリザベスが顔をしかめたのを見て、シルヴィが言った。
「このきれいな顔を縫うことになるとは。気分はどうだ?」
エリザベスは答えにつまった。シルヴィが今までに無く、やさしい笑顔でそう言ったからだった。
「――大丈夫のようですわ……天井が少し回っているようですけれど……だんな様」
エリザベスはかすれた小さな声で言った。シルヴィはその大きな手をエリザベスの頬に当てている。暖かい手だ。
「君が私をだんな様と呼んでくれるのはいい気分だ。私をまだ夫として認めてくれているのだから。けれど、私は本当は君からシルヴィと呼ばれたい。ただのシルヴィと」
エリザベスは起き上がることは出来なかったが、シルヴィがそんなことを言うのに非常に驚いた。
「――シルヴィ?」
「ああ。エリザベス……」
シルヴィはエリザベスの手を強く握って自分の頬へ持っていった。そうしてその指にいとおしげにキスした。

一体、どうしてしまったのだろう。エリザベスはシルヴィがこんな事をする理由がさっぱりわからずにいた。彼は私になど興味はなかったはず。

「君がベッドにくくりつけられている間に、私は告白しておかなければならない。これまで何度も機会を逃した。君にものすごく惹かれていたのに、君を疑って決して自分からは言うまいと、心を偽っていた。いまさらではあるが、どうしても言っておかなければ……エリザベス、君を愛している」

 その瞬間、エリザベスは全ての時間が止まったように感じた。自分が大きく息をして瞬きをするまでは。これは夢ではないのか? 自分がずっと望んでいたことを夢で見ているだけでは? けれど、さっきの額の痛み……エリザベスはシルヴィに握られていないほうの自分の手を額にやって、そこに痛みのある傷があることを確認した。
「突然……びっくりするようなことを言われるのですね」
「君が家を出る前にやってきたのは、アンドルーだった。彼が全部教えてくれたのだ。君が私にはじめてあったときからのことや、指輪のこと。それに君がメアリー・ラロルシュのことを心配していたと。フランスに行くと言ったのに、私が彼女とずっと一緒にいたのを気にしていたのだと」
メアリー・ラロルシュ。あの美しい人。フランスでシルヴィがずっと一緒にいた人。エリザベスはそれを思うと悲しくなった。
「エリザベス。……メアリーはかわいそうな女性なのだよ。彼女はフランスのどこかでパリ・コミューンの残党に囚われになってるご主人をずっと探している。私たちは、それを手助けしているのだ」
シルヴィはエリザベスに、メアリー・ラロルシュがイギリス人にだまされて夫とはぐれ、一人でイギリスへ逃げてきたことを話した。アーガイル公の屋敷で女性たちから聞いた彼女の夫が革命で亡くなったというのは嘘だったのだ。
「君に誤解を招くようなことをしたのは悪かった。けれど、私たちの仕事はたとえ妻でも話せないことがたくさんある」
「では、彼女とは何でもないと……?」
「ああ、もちろん」
シルヴィは微笑んだ。
「エリザベス、君は何も心配することなどない。私もアンドルーに嫉妬する理由がなくなった。彼は本当に全て話してくれたのだ。彼の生い立ちのことも……」
アンドルー! エリザベスはそれを聞いて息が止まりそうになった。これまで多分、誰にも言った事はないだろう。
「アンドルーのことは……」
シルヴィはエリザベスに微笑んだ。
「ああ。わかっている……今は誰も確認する術がないのだろう? だったら、黙っていればいいのだ」

エリザベスは胸が詰まって口がきけなかった。本当にシルヴィを信じていいのだろうか?

「エリザベス。私は人の噂を信じて、自分の気持ちを言わなかったし、君が告白したのを聞いていなかった。私を許してくれるか?」

これはきっと夢だ……とエリザベスは思った。シルヴィがこんなことを言うなんてありえない。けれど、夢なら覚めるまでは幸せでいよう。エリザベスはシルヴィに黙って頷いた。シルヴィはひとつ小さなため息をついて、次を続けた。

「私のことをまだ愛してくれるか?」

少しの間をおいて、エリザベスは言った。

「冷たくしないと誓ってくださるなら。私、よくわかったのです。自分が好きでいる人のそばで、その人にずっと冷たくされているのがどんなにつらいことか。サウスハンプトンにいたときは幸せでした。想像すれば良かったのですから。けれど、私が欲をだして、あなたのそばに……そばにいられるのが夢のようだったから……何も考えずにここに来てしまって、それがこんなにつらいことだとは……」

「冷たくなどしない。誓って」
シルヴィは思わず立ち上がってベッドの上のエリザベスを抱きしめていた。

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