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夜の庭 第五章 -1- |
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シルヴィたちがフランスへ立ったその日の午後、エリザベスのもとへ、ルイーズ・キャンベル、ローン候夫人からメッセージが来た。明日、夫人のみのお茶会を開くので是非ということだった。グロブナー侯爵の妻としては参加するべきかもしれない。しかし、シルヴィには自分が戻ってくるまでは出来るだけ外出しないようにと言われているし、額の傷もまだ治っていない。このまま知り合いの前に出るわけには行かないと考え直したエリザベスはその会を欠席することにして、丁寧な返事を書いた。メッセンジャーはその返事を持って帰った。 そういえば、ローン候はもうロンドンに戻って来られたのかしら。確かシルヴィは自分の代わりに、ローン候にフランスへ行ってもらったとか言っていたように思うのに……ルイーズ・キャンベルがお茶会? まあいいわ。どうせ行かないのだから。エリザベスは深く考えもせず階下のジェイン・ゴアのところへ降りて行った。 階下ではエリザベスの知らないうちに、何故か大掃除が始まっていた。今日はなんだか朝から人が少ないと思っていたのだ。主人がいないうちに、階下を片付けてしまおうと思ったのだろうか。ベネも自分には何も言っていなかったが、ゴードンやコリン、女中の何人かと一緒になって片づけをしている。 「奥様、今日は降りてきてはいけません。埃だらけなんですから」 メイシーがエリザベスをいさめるように言った。 「大掃除するなんて聞いてないわ」 目の前に舞っているちりをエリザベスは手で払った。 「だんな様のお言いつけなんです。私どももたまにはきれいにしなくちゃいけませんからね。明日は階上もやりますから。さ、さ、お戻りください」 メイシーに追い立てられるようにしてエリザベスは階段を上がった。ジェイン・ゴアにルーバーブのシロップ漬けを作ってもらおうと思ったのに……がっかりだわ。この間、見舞いにやってきたアンドルーが持ってきてくれたそれをエリザベスは忘れられなかった。自分でも作れるが、そんなことはこの屋敷では許されない。 階上で普通に仕事をしているのはエヴァンズだけだ。話し相手もいないこの屋敷はやはり寂しい。絵もピアノもやる気になれず、エリザベスは図書室に引きこもることにした。 しばらくすると、エヴァンズが今日配達された手紙を持って図書室へやってきた。たった一通、銀の盆に載せられてきたのは、ロンドンの有名な園芸店からの手紙で、催し物の案内だった。「ロンドンの種屋」とエリザベスが呼んでいたその店は、エリザベスがサウスハンプトンにいた時、よく、珍しい種を送ってきてもらっていた。それにしてもどうしてこの屋敷の住所がわかったのかしら? 不思議に思いながら中を確かめたエリザベスは、その催し物が今日から、チェルシーでおこなわれていることを知った。 チェルシー……ハイドパークでやってくれるなら行けたかもしれないけど。ああ、残念。 エリザベスは図書室から中庭を眺めた。 ――種や植物を買ってきても……この庭に手を入れるのは誰も喜ばない。たぶんシルヴィも。 以前、小さな畑をここに作ろうとした時も、ハドソン以外は表立って誰も反対しなかったけれど、心良くは思っていなかった。ここで庭仕事しようなんて、到底無理なことなのだ。ダイアナが亡くなってまだ三年。その影は大きい。 考えてみれば、庭のことでさえこうなのに、シルヴィがたった三年でダイアナのことを忘れられるわけがない。 彼は自分のことを、少しは心の中に置いてくれるだろうか。昨日までのほんの少しの間、自分はまるで夢を見ているようだった。もちろん、耳元でささやかれる甘い言葉も、唇をたどるその指も、夢だけでは想像もつかなかった。けれど、こうしてまた彼がいなくなってしまうと、あれは夢だったのではないかと、錯覚を起こしてしまう。 彼がただ無事に戻ってきてくれればそれでいい。エリザベスは自分の錯覚がこれ以上ひどくならないよう、せめて日中は彼のことを考えないようにしようと思った。 夜、エリザベスが食堂でひとり夕食を取っていると、玄関のベルが鳴った。エヴァンズが出て行き、何やら話をしていたが、しばらくすると食堂へ戻ってきて、エリザベスに言った。 「奥様、ちょっとよろしいでしょうか」 エヴァンズが食事中にわざわざ声を掛けるのはよっぽどのことだ。 「どうしたの?」 「それが……実は夕方、ベネが市場に使いに出たのですが、どうもスリと間違えられて警察に連れて行かれたようなのです」 「スリ? ベネが? まさか……」 「私も何かの間違いだとは思うのですが……」 エヴァンズは言いよどんだ。 「警察が奥様に来て欲しいと言っています。 まさか、ベネがそんなことするわけがない。ロンドンへ来てからは、何かと入用だろうからといって、給金も上げているのに。 「本当にベネなの?」 エリザベスは玄関に出て行った。 警官は一人で、何やら帳面に書き物をしていたが、エリザベスが出てくるのを見て顔を上げた。 「ミセス・グロブナー?」 「はい。私がミセス・グロブナーです。うちのベネが何か……」 「ああ、パル・マルのマーケットでちょっといざこざがありましてね。ある紳士が財布をすられたと言っているのです」 「で、うちのベネがやったと? 何か証拠があるのですか?」 「それが……ミス・クーパーのバッグの中から財布が出てきまして」 エリザベスは信じられずにエヴァンズと顔を見合わせた。 「何かの間違いですわ」 「財布は出てきましたから、掏られた紳士はもう良いと言っているのですが、ミス・クーパーがミセス・グロブナーに来てもらいたいと」 ベネが……ああ、ベネ! きっと心細いのだわ。エリザベスはすぐ「わかりました」と返事をした。 「奥様、私も参ります」 エヴァンズの後ろにいつのまにかやって来ていたゴードンが言った。 「面会できるのはミセス・グロブナーだけだ」警官は冷たく言い放った。 「しかし、奥様を一人で行かせるわけには……」 「警察へ行くのに、何の不安があると言うのだ。さあ、馬車が待っていますぞ」 エリザベスは大急ぎで出かける用意をした。玄関に出て行くと、使用人たちが皆、心配そうにしている。 「一時間したら、迎えに参ります」 ゴードンが声をかけた。 「ええ。そうしてちょうだい。大丈夫、ちゃんと連れて帰ってくるから」 エヴァンズが場所を確認し、エリザベスは馬車に乗り込んだ。警察の馬車に乗るのは初めてだ。まるで護送されているよう……装飾のない黒一色のキャリッジが余計に不安をあおった。 馬車はピカデリーのにぎやかな場所を通っていた。だんな様がいない時に限って、この家では何かと面倒なことが起こる。壁に頭を寄せようとしたとき、エリザベスははっとした。 この馬車はホワイトホールへ向かっていない。どうして? こっちはコヴェントガーデンへ行く…… エリザベスの不安は更に大きくなった。スコットランドヤードからどんどん離れていく。馬車はホルボーンに入り、どんどん東へ向かっている。 「どこへ行くの!? 警察へ行くのではなかったの?」 エリザベスは馬車の扉についた窓を開け、御者と一緒に腰掛けている警察官に大声で訊ねた。馬車は街中をものすごい速さで走っていた。窓から身を乗り出すと、外に振り落とされそうだ。 「うるさい! 黙ってろ!」 振り返った警察官は馬用の鞭を振り上げ、扉の端をたたいた。エリザベスは恐怖で口がきけなくなった。もう警察官ではなかった。恐ろしい形相をした男。自分は制服にだまされたのだ。 |
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