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夜の庭   第五章   


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 エリザベスの乗った馬車は猛スピードでロンドンの南東へ向かっていた。一時間も走っただろうか、テムズの川岸で馬車は止まった。外は真っ暗だった。誰かが明かりを持って川のほうへ走っていく。

エリザベスが馬車の中でじっとしていると、外の誰かが扉を開けた。
「降りろ」
警察官の服を着た男はもういなかった。御者をやっていた男が笑いながら札を数えている。誰かに頼まれたのだ。自分をここへ連れてくるようにと。エリザベスが馬車を降りると、御者に札束を渡していた男がエリザベスの後ろへ回って、きつく目隠しをし、あっという間に後ろ手に、縛られてしまった。そして「歩け」と言ってエリザベスを小突いて前に進ませた。
「ベネは……」
「余計なことはしゃべるな」
エリザベスを遮るように、男はそう言って、おそらく川岸に見えていた小屋の方へ歩かせた。

男が立ち止まって、小屋の扉を開けた。中の明るい光がエリザベスにも感じられた。
「連れてきました」
「ご苦労」
エリザベスはその一言でわかった。この声……この声は、レドナップ。

「どうして、どうしてあなたが……」
エリザベスがつぶやいた。

「このお嬢さんは、とても感がいい。私が声でわかるらしい。ようやくここへ来てくれた。私はものすごく急いでいて、朝から大変だったのだよ。いろいろ策を弄したのに、あなたはちっとも乗ってくれなかった」
エリザベスはその話にはっとした。
「まさか……ルイーズ・キャンベルの話は……」
「園芸店のマーケットもね。あの広告は小さかったけれど、高い金を払って作ってもらったのに」
エリザベスの身体がぶるっと震えた。
「ああ、もう一人のご婦人には用はないから、君がこれからする質問に正直に答えればパル・マルの元のところへ戻しておいてやろう。君一人で私には十分だ。けれど、正直に答えなかった場合は、彼女もサメのえさにさせてもらう」

エリザベスは肩を掴まれ、何か固いものの上に座らされた。

「さて、エリザベス。知っていることを全部しゃべってもらおうか。君の、ストランドの部屋には例の地図があったのだろう?」

地図……シルヴィが持って行ったあの地図。レドナップもこれにかかわっていたのか……エリザベスは返事をどうするか迷った。
「エリザベス。しようがないな。ここで正直に答えないと、君にとっては思わしくないことになる。さっきも言ったが、ミス・クーパーを痛めつけることは私の本意ではないが、簡単なことなのだよ。なんなら、ここで鞭打ちしてもいい。このお嬢さんは信用してくれないようだから、ミス・クーパーを隣の部屋へ連れてきてくれ」

重い靴音がごとごとと木の床を鳴らしている。どこかの扉が開く音がして、別の軽い靴音が混じった。ああ、本当にベネが? 
レドナップはエリザベスの手を引いて、木の床にひざまづかせた。そして、目隠しをはずし、頭を押さえつけた。
「さあ、ここから覗いて見るがいい」
ちょうど壁のしきりになっている板の隙間から隣の部屋が見える。ベネは目隠しと猿轡をされて、床にひざまづいていた。

「やれ」
レドナップが言うと、隣の部屋へにやけた男がそれを伝える。ベネには顔を見られたくないのだ。と言うことは本当に返そうとしている?
しかし、そんなことを考えている余裕はあまりなかった。ベネはさっきの馬用の鞭で背中を三度たたかれ、うめいて床に転がった。
「やめて! やめてください! 何てひどいことを……」
エリザベスはすがるようにレドナップを見た。
「どうしてこんなことをするのです。あの地図にそんな価値が……」
「やはり、あそこにあったのか」
エリザベスの口から思わず出た言葉をレドナップは聞き逃さなかった。
「今、それはどこにあるのだ」
エリザベスはレドナップをにらみながら言った。
「もはや、政府の持ち物ですわ。私は存じ上げません」
テーブルの上にあったワインを取って一口に飲み干し、レドナップはにやりと笑った。
「政府の手先に嫁いだご婦人なら当然の答えだ。まあいい。シルヴィ・グロブナーが持って出た事はわかっている。そうでなければフランスへ渡るはずがないからな。では、設計図についてはどうだ」
エリザベスは大きく首を振った。
「私などが知っているはずがないでしょう。あなたは国家機密を知る人間が、その妻に全てを話すと思うのですか」
レドナップは笑って、そばにあった椅子に腰掛けた。
「何とそつのない答えだ。あなたが私になびかなかったのは大変残念だった。もし私に嫁いでいれば今頃、何の問題もなく、幸せに暮らしていただろう。私はあなたとなら、うまく結婚生活が送れたかもしれないとつくづく思うのだよ」

 エリザベスは脅しに話が向かないよう、関心を別の方へ向けようとした。
「けれど、あなたは別の方と婚約されたとお手紙をいただきました。私が断ったのではありませんわ」
「ああ、そのことか。私は緊急に金が必要だったのだよ。もともとはコールマンに頼まれたのだ。君と結婚したら融資しても良いと」
「私と結婚したら?」
コールマンにとって、一体何の利益があったというのだろう。エリザベスはさっぱりわからなかった。
「あなたがサウスハンプトンへ初めて来られたのは二年前でしたわ。そんなに前から地図を探していたというのですか」
「地図? 地図が貴方の家にあると聞いたのは、あのフランスの盗人からだ。そのことはコールマンも知らなかった」
「ではどうして」
「私が貴方に近づいたのは、二年前、貴方の父親が死にかけていたとき、コールマンは私が君と結婚したら、金を融資して、私を自分の養子にすると言ったからだ。奴は子供もいなかったし、ただのナイトからもっと上のクラスに序せられたかったのだろう。海軍でも、自分には有力な貴族の親戚がいないと、いつもそのことでぼやいていたから。はじめは途中で司令部から呼び出しがかかったからうまく行かなかったが、今回は結構うまくやったと思っていたのに……あの男がそれを邪魔した」
エリザベスは自分がただ義理の娘になることで、コールマンがそれほど取り立てられるようになるのかわからなかった。その夫を養子にしたからと言って、後々財産をどうにかできるわけでもなし、爵位もしかり。レドナップは何か自分には言えないことがあるのだろうとエリザベスは思った。
「だが、あの男はけちで、人を脅すだけのひどい奴だ。奴にどれだけ振り回されたことか。今回のことにしたって、ロシア人などに肩入れしなければ良かったのだ。いくら金がいいからって、スパイ活動まで始めなくても良かったのに。おかげで私はこんなことまでしなくてはならなくなった」

「あなたは……一体何をしようとしているのです。私など誘拐して何ができると」
レドナップは小さく笑った。
「あなたのその控えめな態度は相変わらずだな。それが美徳でもあり、つけこまれる要素でもある。あなたの結婚した相手は、宝の地図を持っているのだよ、エリザベス。あなたにはフランスへ一緒に行ってもらう。地図と交換できるかどうかは、君の夫次第だな」
「私と交換? その重要な地図か何かを私などと交換すると言うのですか。まさか、本気でそのようなことを考えていらっしゃるの?」
「エリザベス……あなたが賢いのは良くわかっているが、この後に及んで私をだまそうとしても、それは無理と言うものだ。ロード・シルヴィは必ず助けに来る」

 レドナップの言うことにはそれ以上逆らえなかった。エリザベスは口をつぐんだ。それに、レドナップはベネにはさっき以上に危害を加えるつもりはなさそうだった。もともと自分がそれほど何かを知っているとは思っていなかったのだ。つまり、自分に従わなければひどいことをすると見せ付けておきたかっただけ。
「あのお嬢さんは通りに戻しておこう。君にはこれだ」
レドナップはそう言ってエリザベスにもう一度目隠しをした。そして、エリザベスを立たせて別の部屋へ連れて行った。その後、エリザベスは無理やり薬のようなものを飲まされ、眠らされてしまった。



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