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夜の庭 第五章 -3- |
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シルヴィたちはフランスを鉄道で南下してきた。パリからトゥルーズにはいり、その後アリエージュ谷を通ってセルダーニュに行き着く。ピレネーのどこまでも続く美しい稜線を馬車の窓から見ながら、シルヴィはこれがエリザベスとの新婚旅行だったらどんなに良かったかと思った。サウスハンプトンに滞在していた時、彼女はイギリスから出たことがないと言っていた。家庭教師がフランス人のハーフだったから、フランス語も話せるが、それを使う機会もないと。シルヴィは自分がこの組織を辞めてしまえばどこへでも旅行に行けるし、エリザベスに寂しい思いをさせることもないのだとはわかっていた。ピアソンがなんというかわからないが、早くこの組織をヘンリーやジャック・フィッシャーに継いでもらって引退したい。エリザベスを家で看病しているとき、シルヴィは本当にそんなことを考えていた。 カロルの城ではピアソンとローン候がシルヴィたちを待ち構えていた。城主のピエール・ド・ギボンはイギリスの首相の親書を持ってここへやってきたローン候を手厚く迎えたが、パリ・コミューンの残党に占領されているルブラン要塞を攻撃することには大反対した。この町には、生活のためにパリ・コミューンに手を貸しているものたちもいる。反政府勢力である彼らと付かず離れずうまくやってきたギボンは、争いの火種がラトゥール・ドゥ・カロルの町中に起こることを非常に心配していた。フランスではこれまでもいろいろな勢力が入れ替わり立ち代り政権を握り、そのたびにギロチンが使われてきている。ギボンはその混乱と災禍を何とかくぐりぬけてきたが、ルブラン要塞を攻撃するとなると、話は別だった。要塞に出入りしている市中の人間を殺せば、報復は免れない。ギボンは彼らに危害を加えないで要塞を取り戻す方法を考えて欲しいと言った。 しかしその後、パリから伝令がやってきた。第三共和国政府が要塞奪還のためにトゥルーズから一個師団を寄こすと言っているのだ。ギボンは覚悟せざるをえなかった。 「どうしても要塞を攻めなければならなくなった。政府からの命令を無視する訳にはいかない」 スペインとの国境にあるこの町は、どうしても政府の手を借りて守ってもらう必要がある。市中の何人かの命とスペインの脅威では天秤にかけるまでもないのだ。 「師団はいつ着くのです」 「二、三日うちには」 シルヴィが訊ねると伝令が答えた。 「二、三日。それだけあればこちらも作戦を立てる時間が持てる。ジャック・フィッシャーも昨日上陸して明日にはここへ来ることになっている」 ピアソンはラトゥール・ドゥ・カロルへ来てから、海上で海賊討伐の展開をしているデイ提督となんどかやり取りをしていた。ルブラン要塞を攻撃する時にはジャック・フィッシャーの船に乗っている海兵と砲兵を提供することになっている。 「実はルブラン要塞にはこちら側の人間をもぐりこませてあるのです。彼らが市中の人たちを煽るのを見張らせるためにね。この作戦は、実行するなら失敗してもらっては困る。もし、必要なら彼を呼び寄せるが」 ギボンが言った。 「ぜひそうしていただきたい。実は私たちはある人物を探しているのです。要塞の中にいるのではないかと思うのだが」 「それはもしや……」 ギボンは眉をひそめた。危険を承知して一緒にフランスへやってきていたメアリーはそれを見逃さなかった。 「何かご存知ですのね。探しているのは私の夫です。フィリップ・テオドール・ド・ラロルシュ。黒い髪で目は茶色」 言葉を選ぶのにギボンは少し間を置いた。 「オラス・ルーベから……オラスは私たちが要塞にもぐりこませている人間だが……以前、聞いたように思う。要塞の中に狂人が一人閉じ込められていると。そんな人間をどうしていつまでも置いているのかと奴らの首謀者に訊ねたら、いずれ使い道があるかもしれないと言っていたと」 「狂人……」 メアリーは顔を手で覆った。 「ああ。私の夫は……狂人になったと……」 夫とはぐれて六年。その間にきっと、拷問にもかけられたであろう。フィリップと一緒にいたアンドレ・ポーは死体で見つかったとき、身体中にひどい拷問の跡があったと聞いている。 「――けれど、生きているのですね。生きて、閉じ込められているのですね」 ギボンは頷いた。 「死んだとは聞いていません」 その場は重苦しい雰囲気だった。希望はあるが、助け出しても普通の生活が送れるかどうかは別の問題かもしれない。メアリーが気丈に振舞っているのが痛々しい。シルヴィは、生まれた場所が違っていたら、自分もそうなっていたかも知れないと思った。 その夜、ギボンはオラス・ルーべをひそかに城へ呼び寄せていた。オラスは鋳型職人で、今でこそ市中に家を構えてはいるが、代々ひそかにカロル城主の甲冑や飛び道具の注文を受けてきたお抱え職人の家系をもつ。情勢がいろいろ変わるにつれて、オラスは表面上はどの有力者にも着かず離れずうまくやってきたが、実は忠誠を誓っているのはただ一人、カロルの城主であるギボンだけである。ギボンは抜け目のないオラスを見込んで、パリ・コミューンの残党が要塞を占拠し、市中の人間を呼び込みはじめたのに乗じてその中にもぐりこませた。そのオラスからギボンは常に情報を得て、タイミングを逃さず、これまで何とかギロチンから逃れてきたのだ。 オラス・ルーベはシルヴィたちに要塞の中のあらましを話した。ルブラン要塞の入り口はやはり二つしか知られていない。もう一つ、要塞の中から細く流れ出ている湧き水の川があるが、ここは険しい山を分け入ってようやく入れるところで、まして外に流れ出る水の流れに逆らって要塞の中に入るのは至難の技らしい。 シルヴィたちが持ってきた地図を見せると、オラスは非常に驚いた。まじまじとそれを眺めて、市中のトンネルの入り口はおそらく今は使われていない町外れの粉引き小屋だと言った。自分たちが普段いる場所にトンネルの入り口があるなど、オラスにしても思いもよらないことだった。ただ、城主であるギボンは、この通路を作らせたのが自分の先祖であるが故にその存在だけは知っていた。 「だが、要塞側の出口はどうなっている? ふさがっているのでは?」 通路の中にある設計図を取りにいけたとしても、出口がふさがっているのでは、この通路を伝って要塞の中に入ることは出来ない。そうすると、見張りの立っている山の二つの入口を使わなければならない。シルヴィは出来ればこの通路を伝って要塞の中の人間に知られずに中に入りたかった。 「ああ、ふさがっている。けれど、ここは今、食料貯蔵庫になっている。部屋は大きいが、外から鍵がかかっていて見張りも置いていない。中央の部屋からは離れているし、たぶん中で多少の物音がしてもわからないだろう」 「部屋の鍵をはずせるか?」 「さて……危険ではあるが、やってみる価値はある。鍵より中の壁を崩す方が大変だと思うけどね。隣の武器庫には弾薬が大量に置かれているから、火器は使えない」 「それは大丈夫。持っては行くが、私はもともと飛び道具は苦手なのだ。古い人間だから」 ヘンリーが横を向いて苦笑いしている。シルヴィは昔から拳銃が嫌いだったので、下手ではなかったが、好んでそれを持とうとはしなかった。このカロル城に来てから、ジャッキーとヘンリーが説得してやっと夜にベッドの脇のサイドテーブルに拳銃を置くようになったのだ。 シルヴィはその後、オラスからフィリップが囚われている部屋の場所と要塞の中に配置されている見張りの人数を聞き出した。急がねばならない。人目につかないようにして、シルヴィはなるべく早くこのトンネルに入って設計図を取りに行こうとしていた。 |
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