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夜の庭   第五章   


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 目が覚めると、エリザベスは緩やかに揺れる床の上にころがっていた。どうやら船の上にいるらしい。強いワインの香り。ワイン樽のようなものが隣にある。口には猿轡もかまされていて声を上げることはできない。目が覚めてしばらくすると、そこが海の上ではなく、どこかの港なのだということがわかった。板張りのはしけのきしむ音、荷物を運ぶ人間が行き来する音、聞き取れはしないが人々の話し声、誰かを呼んで叫ぶ声、船に当たる弱い波の音、雑多な音が少し遠くに入り混じって聞こえてくる。その言葉は英語ではなく、まぎれもなくフランス語だった。一体どこに連れてこられたのか。何日眠らされていたのか。完全に目が覚めると、エリザベスは身体中が痛んでたまらなくなった。しかし誰も助けてはくれないし、叫ぶことさえできない。ベネは無事に屋敷にもどされたのだろうか。エリザベスは結局また目を閉じて誰かがやって来るのを待った。

今、自分は何も出来ない。このままでは。逃げられるのなら、すぐそうしたいけれど……エリザベスは一人でいるのが不安でたまらなかった。

 それから三十分ほど経っただろうか。閉じ込められている部屋に男が二人やって来て、エリザベスは水を飲まされて、大きな麻袋の中に入れられた。この時、エリザベスは無駄に抵抗はしなかった。どうせ逃げられはしないし、何もできない。けれど、どこへ連れて行かれるのだろう。周りが何も見えない状態のまま、エリザベスは自分の身体が、馬車に乗せられ、その後、鉄道の穀物を運ぶ貨車の中に放り込まれたことを知った。

 列車の中で、何度か男がやって来てエリザベスにパンとチーズを与えようとしたが、エリザベスはそれをほんの少ししか食べられなかった。これではいけないと思ったが、どうしても食べ物が喉を通らない。身体の痛みももはや痛みではなく痺れに変わっており、エリザベスは穀物の入った麻袋に体を預けているのがやっとになっていた。

 その貨車は何度も切り替えのポイントを通過し、南へ向かっているようだった。レドナップは自分と例の地図を引き換えにするつもりだ。ということは、やはり行き先はラトゥール・ドゥ・カロル? 自分は生きたままもう一度夫にあえるだろうか? エリザベスは深いため息をついた。



 貨車は一昼夜走り続け、エリザベスは再び麻袋に入れられて今度は馬車の荷台に詰め込まれた。そこには藁が大量に積まれていたので、ゆれはひどかったが貨車の固い床に転がされているよりはかなりましだった。南下しているはずなのに、段々気温が下がっているのにエリザベスは気づいていた。山を登っているようだ。ラトゥール・ドゥ・カロルはアンドラとの境目だから、夏でもきっと寒いぐらいだろう。もう大分近いのだ。エリザベスはイギリスを離れた一番初めがこんなことになったことをおかしく感じた。シルヴィと過ごした最後の夜、彼は戻ってきたら、新婚旅行に出かけようとさえ言ってくれていたのに……そんなことを考えていた時、御者が大声を出して馬を止めた。

人が大勢いる。遠くから聞こえるのはフランス語? スペイン語? エリザベスが耳を澄ませていると、誰かが荷台に上がって、エリザベスを麻袋ごと担ぎ出した。外が暗いことはわかった。夜なのだ。エリザベスは誰かの肩に担がれたまま、どこかへ連れて行かれようとしていた。

 麻袋をはずされたエリザベスは、その部屋のまぶしさに一瞬、目がくらんだ。これまでずっと暗いところにいたから、まるで目が退化してしまったようだった。そこには毛皮の上着をつけた男たちが数人、エリザベスを見下ろしており、自分のすぐ後ろにレドナップが立っていた。

「扱いは丁重に頼む。大事な人質なのだ」
レドナップが慣れないフランス語で言った。
「へえ、そうかい。でも俺達にはただの女だぜ」
「この人質に指一本でも触れたらギロチンにかけるぞ。俺たちは女子どもをひどい目にあわせるならず者の集団じゃない。こんなことを忘れるような奴はすぐ台の上に送る」
男たちはにやにや笑っていたが、リーダーと思しき人物の一言でピリッと震え上がった。

「金はいつ?」
レドナップが訊ねた。
「言っておくが、俺たちが用意できるのは、ジブラルタルからアメリカまで行く船の手配だけだ。それも設計図がちゃんと手に入ったらの話だぞ。今までどれだけ探しても見つからなかったのに、絶対にあるというから話に乗ったのだ。もし手に入らなければこの取引はすぐやめる」
ギロチンのことを口にした男が言った。
「ありかが示された地図が必ず手に入る。この女と引き換えだ」
「設計図の売り先も紹介すると言っていたな」
レドナップは上着の胸ポケットからメモを取り出した。
「この男はまだロンドンにいるが、イギリスで取引をするのはやめた方がいい。フランスのロシア大使館から呼び出してもらうのが一番確実だ」
エリザベスはそれがニコライ・ドニエスクのことを言っているのだとすぐわかった。コールマンが取引していた男。


 レドナップと男たちの話が済んで、エリザベスはそのまま暗い岩の回廊の奥に連れて行かれた。どうやらしばらくは身の安全が確保されたらしい。要塞の中の岩の回廊は、あちらこちらの壁につけられた古い蝋燭の匂いがする。その奥に人の気配がした。もっと近づくとそれは蝋燭の匂いから饐えた人の匂いに変わった。

 通路の奥まった一角に、部屋の扉らしきものが三つばかり見えた。扉には大きな鉄格子が取り付けられ、中が良く見えるようになっている。エリザベスはその一つの部屋に放り込まれた。部屋に鍵がかけられたが、辺りに見張りはいなかった。もちろん、どうせ逃げることなど出来ないのだが。腕をずっと縛っていた革紐がこのときようやくはずされた。手の感覚がない。腕が下に降りたまま、自分で持ち上げられるようになるまで十分はかかっただろう。ひどく痺れているひじをゆっくりさすりながら、エリザベスが部屋に置かれた椅子に座ろうとしたその時、その声は聴こえてきた。
「――どこから来たのだ……」

かすれた男の声。エリザベスは背筋に走った冷たいものに一瞬ぶるっと身を振るわせた。

「――どこからやって来たのだ……女が、こんなところに……」

エリザベスがそうっと部屋の扉に取り付けられた大きな格子から通路をのぞくと、一つ向こうの部屋からよれよれのシャツとズボンを身にまとった男がこちらをのぞいているのが見えた。エリザベスはまた驚いてそこから身を引いたが、思い直してもう一度良くその彼を見た。
「私は……」
言いかけて、英語では通じないと思い、すぐフランス語に直した。
「私は、エリザベス・グロブナー。イギリス人です。 あなたはもしや……」

「フィリップ……フィリップ・テオドール・ド・ラロルシュ」
男はまるで亡霊のようだった。しかし、自分の名前を名乗ったその声はさっきのかすれた声ではなく、太くしっかりした声だった。

「ああ、あなたが……! あなたが、メアリーの夫」
思わずエリザベスが口走ったその名前に男は反応した。
「メアリー……? マリー? あなたはマリーを知っているのか!」
フィリップは鉄格子のはまった扉にメアリーの名前を呼びながら泣き崩れた。
「――今どうしているのだ。イギリスへは無事、たどり着いたのか?」
「ええ、無事ですわ。ハイドパークの西側のお屋敷にいらっしゃいます。あなたのことを、何年も探されているのですよ」
「マリーが! 私を探していると……ああ、そんな危険なことはしてはならない……せっかくイギリスへ逃げられたのに……今度はただではすまない」
ただではすまない? それはどういうこと?
「どうして、ただではすまないのです? あなたはともかく、メアリーを追いかける人たちがいるとは……」
「彼らは最近また、マリーが持っていた戦艦の設計図を探しているのだ。買い手が付きそうになってきたらしい」

――正確には戦艦の設計図が隠された地図。それは私の夫が持っている。

 エリザベスは本当は非常に疲れていたが、フィリップにこれまであったことをこと細かく話した。そして、必ず自分とフィリップを夫が助けに来ると、エリザベスは付け足した。そうでなければ、そう信じていなければ、エリザベス自身、気持ちがくじけそうだった。

 夫が自分を助けに来てくれる。それはしかし、最後のことだ。シルヴィにはやるべき仕事がある。エリザベスは、その時がきたら、いつでも逃げ出せるように備えておかねばと自分に言い聞かせた。

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