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夜の庭 第五章 -5- |
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地中海からはジャック・フィッシャーの部隊が上陸し、ラトゥール・ドゥ・カロルを目指して行軍を続けていた。地中海の暑い日ざしからあっという間にピレネーの寒い気候にさらされた海兵たちは、陸に上がってからの機嫌の悪さも多少はおさまるようだった。沿岸に陣取っているデイ提督からは、何としてもルブラン要塞のパリ・コミューン残党を駆逐するように厳命されている。彼らは最近、新しく開発された高性能の弾薬を地中海の海賊にまで売りさばくようになっていた。イギリスの船がそれで何度も攻撃され、略奪にあっている。新しい弾薬は装甲艦でさえ恐れるものでなくなっていた。 行軍三日にしてようやく、フィッシャー隊はラトゥール・ドゥ・カロルに到着した。この行軍には何故かコールマンも同行していた。行軍に艦長がわざわざ出向いているのに司令官までが船を離れることなど無いが、要塞の攻撃を渋っている城主のギボンを自分が説得すると言って、デイ提督に上陸許可をもらったのだ。フィッシャーにはそれがただの口実だと言うことは良くわかっていた。ロード・シルヴィがここへ先に来ていることはわかっていたし、おそらく彼が持っている地図を何とかして掠め取ろうとしているのだ。フィッシャーはどうしてもそれを阻止する必要があったし、わかってはいるだろうが、そのことをロード・シルヴィに伝える必要もあった。 何日かぶりの再会を果たしたシルヴィたちとフィッシャーはコールマンに気づかれないよう、城の中で会合を持った。ジャックはコールマンが自分からこの行軍に参加すると言い出した事をシルヴィに告げた。シルヴィはジャックにロンドンで手に入れた地図を見せ、明日の夜にもオラス・ルーべを伴ってトンネルの中に入る予定だと告げた。オラスは明日であれば、食糧貯蔵庫の鍵を夜に開けておくように出来ると言ったのだ。要塞の山側の二つの入り口は、ジャックが兵士を出して見張らせることになった。フランス隊が来るまでイギリス軍は動かないが、どの程度の人間が要塞に出入りしているのか、見張りがどれぐらいいるのか、交代時間がいつか、情報を取っておくに越したことはない。シルヴィは攻撃を始める前までにどうしても設計図を手に入れておきたかった。そして要塞の中へ入り、フィリップを探し出さなければならない。オラスは狂人として閉じ込められている人物がどのあたりにいるか、大体は知っていたが、実際に行ってみたことはないと言っていた。 その夜は軍の士官たち、イギリスの外務省から派遣された外交官、ローン候、マダム・ラロルシュと、ギボンの家族とが一同に集まって食事をした。ここ数年ほとんど使われていなかったという城の大食堂が開けられ、ささやかではあったが晩餐会らしい食事が用意された。 シルヴィはその夜もマダム・ラロルシュの隣におり、いつかと同じように正面にコールマンがいた。コールマンの隣はギボンの妻リリアンだった。 コールマンはフランス語はそこそこ話せるが、リリアンは自分の手柄の話しかしない軍人を相手にするのが苦痛のようだった。 「――私どもも地中海では過去に何度もフランスの艦隊とやりあったのですよ。一体何隻の船を沈めたことか。しかしご主人は奇特な方だ。以前の敵をこのように快く迎えて下さるとは……」 リリアンは返事をせず、ただ冷たい笑いを浮かべていた。決して快く迎えたわけではない。政府からの使者が来て、そうせざるを得なかったのだ。一体何と返事をすればよいのやら、シルヴィとメアリーに向かって困った表情を見せる。 「海軍と言いましても、やることは海の上だけではありませんからな。私はこれまで数え切れないほどフランスに渡って、城や要塞の破壊工作をやりました。ルブラン要塞は攻めるのは難しい要塞らしいが、我が軍にかかれば……」 「司令官、それで、一体どんな方法で要塞を攻めるとおっしゃるのです。入り口もわからないというのに」 「それは……破壊工作の作戦内容を、軍以外の人間に話すわけにはいかんのだよ。ロード・グロブナー」 コールマンが苦々しげにシルヴィに言った。ジャック・フィッシャーがテーブルの向こうで苦笑いしている。コールマンはこの作戦にはついてきただけで、実はほとんど内容を知らないのだ。フィッシャーはデイ提督から直接命令を受け、誰にもそれを話さないように厳命されている。デイ提督はピアソンから地図の話も聞いているし、コールマンが近い内に国家反逆罪で軍法会議にかけられそうだと言う話も知っていた。フィッシャーはコールマンが地図をめぐって新たな動きをすればその場で取り押さえても良いとさえ言われていた。 「司令官にはどうやら秘密の作戦があるらしい。私のような外交官風情にはとても話せないとおっしゃる。では、仕方がないので話題を変えましょうか。この城の中庭に植わっている薔薇はあなたが自ら手入れされているのですか、リリアン。昨日も今朝も剪定されていたようだが」 リリアンの顔がぱっと明るくなった。 「ええ、お気づきになりましたのね。お恥ずかしい話ですけど、なかなか良い庭師が見つからずにおりますの」 「でも以前にはいた、のでしょう? あそこに植わっている薔薇は、東洋のものですね。あの一重の白い花。なかなか手に入らない」 「そうですわ。よくご存知ですのね」 リリアンは嬉しそうだった。エリザベスが以前、ローウェルの屋敷の庭で、初夏に素晴らしい香りで咲くとシルヴィに教えた同じ薔薇が、この城の中庭にあった。 「スエズが安定したら、東洋のものがもっと簡単に手に入るようになりますよ。お茶も香料も織物も」 ローン候が言うと、後は簡単だった。メアリーが東洋の香料の話をしはじめると、リリアンだけでなく、ギボンの妹もそれに加わって和やかに会話が続いた。コールマンは会話に飽きたのか、食事が終わった後は、応接間の歓談に加わるでもなく、いつのまにかいなくなっていた。 会食の後、自分に割り当てられた客間に戻ったシルヴィは、部屋を見て声を上げそうになった。そこに誰かが侵入した形跡がある。一通り無くなったものを探したが、何も取られてはいないようだ。 コールマンか…… 肝心の要塞の地図はシルヴィがずっと胸のポケットにしまっている。シルヴィはサー・ヘンリーとジャック・フィッシャーを部屋に呼んだ。油断しないように言ったその時、城の下男がパリのイギリス大使館からシルヴィに遣いが来ていると告げにきた。 「こんな時間に?」 三人は顔を見合わせた。パリのイギリス大使館が? 部屋に連れてこられた遣いが持ってきたのは、一通の電報だった。パリのイギリス大使宛てで送られたその電報は、エリザベスが誘拐されたことを知らせるものだった。メイフェアの屋敷にいるエヴァンズは、このことをどうしても主人に伝えるために大使館に宛てて電報を打った。パリの大使はシルヴィのことを良く知っているので、必ず何とかしてくれるだろうと望みを託して。そして、エヴァンズの思い通り、パリのイギリス大使館は大急ぎでラトゥール・ドゥ・カロルまで人を遣したのだった。 「誘拐? エリザベスが?」 シルヴィはひどいショックを受けた。なぜだ……地図はもはや彼女の手の届かないところにあると、奴らもわかっているはず…… しかし、そのすぐ後、シルヴィは一緒にいたサー・ヘンリーとジャック・フィッシャーを置き去りにして猛然とピアソンのいる部屋へ向かった。 |
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