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夜の庭   第五章   


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「レイ!」

 シルヴィはピアソンにエヴァンズが大使宛てによこした電報を突きつけた。ピアソンはそれにさっと目を通して、驚いた表情でシルヴィを見た。
「あなたは私にずっと隠し事をしている。エリザベスのことです」
ピアソンは「大きな声を出すな」と言って、首を振りながらギボンに割り当てられた客室の扉を自分で閉めた。
「なぜです。あなたはどうして私とエリザベスを結婚させたのです。こんなことが起こるのも、本当は初めからわかっていたのではないのですか」
ピアソンはしばらく黙っていたが、俯いて大きく一つため息をついた。
そして組んでいた腕を解いてサイドボードの上に置かれていたウイスキーグラスの二つに琥珀色の液体を注いだ。一つはシルヴィに差し出されたが、シルヴィは首を振って受け取らなかった。

自分のウイスキーを一口含んで、ピアソンはまた大きく息をついた。
「まずいことになったな……君はこの話を聞いていたら、エリザベスを妻には迎えなかったかもしれない。ああ。確かに、そんなことはしなかっただろう……」
ピアソンの眉間には深いしわがよっていた。シルヴィに背を向けたまま、窓の近くにたち、真っ暗な城の外を眺めている。そして、決心したように重い口を開いた。



「もう三十年近くも前の話だが……先代のアルバート公とエリザベスの父親のジョージは非常に親しくしていた。そのことは知っていたか?」
シルヴィは首を振った。
「アルバート公はなかなか気難しい方だったが、ジョージは若いときにドレスデンにいたこともあって、言葉のこともあり、学究肌だったジョージと気が合った。女王とご結婚された後も、ずっと傍に置かれていたのはジョージだけだ。アルバート公は君も知っていると思うが、大変賢い方で、女王の影の指南役だった。気性にむらのある女王が間違った判断をされないよう、メルボルンが公の意見を聞くよう常々進言していたのは正解だった。最後までとても仲の良いご夫婦ではあったが……実は喧嘩をされることも度々あったのだ」
ピアソンは一旦言話を切って、自分のグラスを口にやった。

「例の博覧会がアルバート公の肝入りだったことは知っているだろう? あの博覧会は表向きには大成功だったが、出費の件では女王とアルバート公はいろいろと意見が合わなかった。一度、二度と、ひどい喧嘩になり、三度目はとうとうアルバート公が宮殿を飛び出されてしまった。そこまでするのはよっぽどのことだっただろう。私たちが知らないうちに、アルバート公はバースへ向かわれ、たまたまそこへやって来ていたトーヴィ伯の娘に手をつけられてしまったのだ」

「まさか……!」
シルヴィは凍りついた。トーヴィ伯の娘というのは、エリザベスの母親ではないか!

ピアソンはちらとシルヴィを見たが、もう一口ウイスキーを口に含んで、また視線を窓の外へ戻した。
「そうだ。アルバート公はご自分の父上の素行が悪かったことを嫌っていらしたから、自分がしてしまったことを大変悔いていらっしゃった。しかし、結果としては、マーガレットは妊娠し、秘密を守るために、その時地元の女性と結婚の決まっていたジョージがマーガレットと結婚することになった」

「では……では、エリザベスはローウェルの娘ではないと」

ピアソンは俯いたまま首を振った。エリザベスはローウェルの娘ではない。アルバート公の娘。つまり、バーティ、プリンス・エドワードの妹……

「エリザベスがいつも身に着けているロザリオ、見たことがあるだろう? あれは元はアルバート公の母上のものだった」
あの精巧に造られたロザリオ……手に取った時、それが簡単に手に入るものではないことはすぐわかった。
「エリザベスは自分の母親からもらったと言っていました」
「そうだろうとも。何もしてやれないかわいそうな子供にと、公がその標として授けたのだ」

「バーティは……女王はそのことを知っているのですか」
喉が渇く……シルヴィの声はかすれるようだった。
「――プリンス・エドワードはご存知だ。自分のことを散々いさめた父上のことを、血は争えないと言って笑っていたよ。女王については、私にはわからん。ご存知かも知れぬ。あの男が耳に入れていれば」
「あの男……?」
ピアソンの目が鋭く光った。
「フィッシャーと一緒にやってきたあの男。コールマンだ」

 喉の渇きを我慢できなくなって、シルヴィはピアソンが注いでそのままにしてあったもう一つのウイスキーグラスを手にとって一気に飲み干した。
「コールマンは若いとき、非常に有望な海軍士官だった。だが、有力な後ろ盾もないあの男は、昇進するにつれて身分の高い貴族たちと知り合いになろうと必至だった。アルバート公もその対象の例外ではなかった。アフリカでも北欧でも手柄をたてていたコールマンをアルバート公はジョージと同じように近いところに置いていたのだが、そのうち悪い噂が流れるようになって、あの男をだんだんと遠ざけられるようになった」
「悪い噂?」
ピアソンは机の上に置いてあった葉巻入れの蓋を開け、一本取り出して端を切り、火をつけた。
「あの男は、貴族たちのスキャンダルをネタにゆすりをやっていたのだよ。貴族どうしの不倫や性癖について、彼ほどいろいろな情報を手に入れている者はいない。高級娼婦と裏のつながりがあって、彼のところには簡単にそういう噂が集まったのだろう」
煙を細く吐き出して、ピアソンは話を続けた。
「バーティが若いときにやらかしたネリー・クリフデンの件も、あれは彼女が自分で交際を言いふらしたことになっているが、本当は違う。コールマンが裏でクリフデンの糸を引いていたのだ。そのことを知ったアルバート公はたまらずご自分で動かれた。当時、ご病状は決して良くなかったが、そうせざるをえなかったのだ」
「次はご自分かと思われたと……?」
「そうだ」

 うんざりした様子で頬に手をやったシルヴィを見て、ピアソンはシルヴィのグラスにウイスキーを注ぎ足した。
「エリザベスはあの通り、賢く美しい女性に育った。ジョージはまだエリザベスが小さい頃からその先行きを非常に心配していた。アルバート公にとっては庶子かもしれなかったが、真面目なジョージはエリザベスをそれなりの身分の者に嫁がせたかったのだ。だから、彼女には細心の注意を払って教育を受けさせていた。フランス語もドイツ語も話せる優秀なガヴァネスを雇っていたし、南のあの地方独特の訛りを決して許さなかった。私も何年かごとにローウェルの屋敷へ行ったが、年を追うごとに非凡に成長していく彼女を見て、実際、ジョージと二人でどうしたものか悩んだ。本当のことを言うと、君を一番初めにローウェルの屋敷へ連れて行ったとき、私は君がダイアナではなく、エリザベスを選ばないものかと思ったのだ」

シルヴィはその言葉にひどいショックを受けた。まさか、ピアソンがそんなことを考えていたとは……では、この結婚は十年も前から考えられていたというのか。

「残念ながら、あの時はこちらが思ったようにはならなかったが」

 ピアソンはちらとシルヴィを見て話を続けた。
「その後も、ジョージの目に叶う人物はなかなか現われなかった。だからエリザベスはあの年まで一人身でいることになった。アルバート公が若くして亡くなられてしまったので、私もジョージもエリザベスの秘密のことについては少し安心していた。だが去年、私は病身のジョージから手紙をもらった。問題を早く片付ける必要が出てきたのだ。ジョージはエリザベスに付きまとっているレドナップとか言う海軍士官のことを調べて欲しいと言ってきた」

レドナップ!

「顔色が変わったところを見ると、君も知っているのだな」
ピアソンはシルヴィの様子を見逃さなかった。
「レドナップはコールマンの下でずっと働いてきた男だ。階級が上がれば早々一緒に仕事をすることもなくなるはずなのに、コールマンはなぜかレドナップのことをずっと使いつづけてきた。私が調べたところではレドナップはかなり怪しい男だ。ポーツマスの貴族の出だが、ギャンブルが過ぎて借金だらけ、これまでに結婚しようとした女性が皆、変死している。たぶん、レドナップはその件でコールマンに弱みを握られていたのだろう。最近では汚い仕事はレドナップがすることになっていたようだ。昨年はこちらが海軍卿に内々に頼んでレドナップをインドへ遣ってもらった。だが、そうこうしているうちにジョージが亡くなってしまった。私はとにかくどうしてもエリザベスを一人でおいておくわけにはいかなかった。ローウェルの家はジョージの甥が継ぐことになっていたようだが……本当はそれも間違いなのだが……エリザベスが屋敷を追い出されることになるなど、到底許されることではない」

「では、あなたは……アンドルー・ヒューイットのこともご存知なのですか」

ピアソンは頷いた。
「彼と彼の母親には気の毒なことをした。しかし、どうにも出来なかったのだ。あの時は彼の母親に相手を探すだけで精一杯だった」

 たった一度の間違いが、こんなに人の人生を変えることになるなど、アルバート公は考えても見なかっただろう。だが、実際はどうだ。三十年近くたって、その子どもが何も知らずに報いを受けるのだ。

――エリザベスは、アンドルーと兄妹でなくても、私を選んだだろうか。

「コールマンはもうすぐ逮捕されるだろう。だが、取引を望んでくるかも知れぬ。エリザベスのことが世間に知れたら、王室にはまたしてもひどい痛手だ。アルバート公は少なくとも清廉潔白で通してきたのだから」
「それはエリザベスが生きていたらの話です。一体誰に誘拐されたのか、あなたには心当たりがあるのですか」
ピアソンは首を振った。
「いずれにしてもコールマンの手先であることは間違いない」

シルヴィは腕組みをしたまま大きく息を吐いた。結局、ピアソンにも自分以上の考えはないのだ。
「私は明日の朝、イギリスへ戻ります。妻を捜さなければ」
ピアソンは頷いただけで何も言わなかった。シルヴィもそれ以上何も言わず、部屋を出て行った。




 朝方、イギリスへ戻るために支度をしていたシルヴィの部屋へ、ヘンリーが大慌てでやってきた。
「今朝、これが城の中庭に投げ込まれていたと」
差し出された封筒の表書きはロード・グロブナーとなっていた。昨日のピアソンの話でとても機嫌が良いとはいえない状態のシルヴィは、黙ってそれを受け取った。

「エリザベスは例の地図と交換する。本日、夕方五時に、城の北側のポン・ブリュネに一人で来られたし」

小さな紙切れと一緒に封筒に入っていたのは、見覚えのある小さなロザリオだった。

エリザベスはここに連れて来られている。ロンドンからここへ! シルヴィは胸に痛みを感じながらロザリオを握りしめ、唇をかんだ。



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