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夜の庭   第五章   


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 二人はようやく静かになったが、落ちてきた岩がごろごろしている通路を、油の少なくなったランプの火を小さくしてゆっくり進んだ。ところどころで岩を除けながら、隙間を縫うようにして歩く。エリザベスはかなり正確に通路の位置を覚えており、一時間もすると二人は要塞の中の湧き水のたまっている淵へ出た。淵にはボートを係留していたくいが残っていた。シルヴィはランプをかざし、この先がずっと岩場で水路になっていることを知った。ここをたどっていくと、要塞の中から山のどこかへ抜けられるのだ。おそらくコミューンの人間はボートでここから外へ逃げ出したのだろう。この外にはイギリス軍が待ち構えていたはずだが。

 二人が乗っていけるボートはそこにはなかった。足の悪い岩場を歩いて行くしかない。シルヴィは片手にランプを持ち、もう片方の手でエリザベスの手を引いて、なるべく先を急いだ。ランプの火が落ちかけている。たぶん外はもうすぐなのだ。もしここで火が落ちたら、暗闇の中をどうやって進めばいい? シルヴィは脇を通っている水路を見た。もちろん、ここをたどっていけばいいのだ。水のなかに入って。しかし、エリザベスは泳げない。まして、夏と言えども、ピレネーの山の中から湧き出る水は冷たい。

シルヴィはランプの火が落ちる前にエリザベスのスカートを裂いて細長い紐を作った。そしてエリザベスの腰にそれを巻きつけ、その端を自分の腰にしっかりとくくりつけた。
「エリザベス。このランプの火が落ちたら、私たちはこの水路の中を泳がなければならない。岩の上は危なくてもう通れないからだ。出口はたぶんそれほど遠くではない。その先が少し明るくなっているのが見えるだろう?」
シルヴィの指した方は確かに少し明かりがあるようだ。外はすぐそこだ。エリザベスは頷いた。
「君は泳げないから、私がこの紐を引いて泳ぐ。いいか、絶対に力を入れるな。水の中では力を入れると沈むのだ。慌てても私にしがみついてはいけない。そうしたら、私も君も沈んでしまう。仰向けになって、息が出来るようになったら、ただ私が引くのに任せていればいい。私は絶対に君を助ける。わかったね?」
エリザベスはまた頷き、そして言った。「お願いがあります」

「何だ?」

「私を愛していると言ってください」

ここまで何も言わず、自分についてきたエリザベスが愛しかった。誘拐され、こんなところまで連れてこられて、ひどい目にあっているのに、彼女は不安を一言も口にしない。けれど、本当は心の中では恐ろしくてたまらないだろう。自分でさえ、この冷たい水につかって、彼女を引いて要塞の外まで泳ぎきれるかどうか不安なのだ。これで最後かもしれないと彼女が思うのは当然のことだ。
シルヴィは大きく息をついて、エリザベスを持っている限りの力で抱きしめた。
「君を愛している。エリザベス」

もうランプの火が落ちそうだった。水際でほとんど真っ暗な中、シルヴィはエリザベスに口づけしながらその頬に涙が伝っているのを感じた。
「私たちは絶対に死なない。君をイギリスへ連れて帰る。必ず」
エリザベスは言葉を口にしないでただ頷いた。



――あの時と同じ。ロンドンに来て初めてシルヴィと出かけたあの時も、彼は私の手を引いて都会の人々の中へ出た。

 水は予想通り冷たかった。身体についた傷に冷たい水がしみる。はじめの数歩はひざまでだったが、あっという間に二人は深い水の中へ落ち込んだ。シルヴィはすぐ泳ぎ始めたが、エリザベスは深みに落ちた衝撃で慌てて溺れそうになった。それでもシルヴィが様子を見ながら身体を離したまま紐を何度か引くと、エリザベスはさっきシルヴィに言われたことを思い出して身体の力を抜いた。それでようやく浮き上がり、仰向けになって呼吸もできるようになり、シルヴィの言ったとおり引かれるままの体制になった。

 シルヴィが紐を引きながら泳ぐのと水路の流れが意外と早いのとで、二人は岩場を歩いているよりはるかに早く先を進んでいた。それでも水が冷たいので、数分すると、身体を動かしていないエリザベスは自分が凍ってしまうように感じていた。いつまでこのままでいられるだろうか。

エリザベスは冷たい水に流されながら、シルヴィと再び出会ってからのことを思い出していた。


ずっと自分の王子様だったシルヴィ。

サンザシの垣根の向こうから突然現われて、薔薇のとげで指を傷つけて。

バルコニーの向こうからひざまづいて、私に謝ったわね。

それに森の中での熱い口づけ……

ローウェルの屋敷の庭で、一緒に散歩に行くかと差し出したその手。その残念そうな笑顔と、それでも何だか楽しそうだった後姿。どちらも忘れられない。
そして自分と結婚して欲しいと。


これまでの全てが御伽噺のようだった。もしここで死んだら……抱えきれないほどの彼への想いが、地上に魂を残してしまう。彼をこんなに愛しているから。

 エリザベスはもはや痛みも冷たさも感じていなかった。ただ、流れに身を任せているだけだ。シルヴィは必死に泳いでいた。不思議なことに、自分がその後ろを流れていくのをエリザベスはなぜか水路の上から眺めているのだった。



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